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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(77)

六章 ウライー
山科禮蔵の奔走

山科禮蔵(人文研サイトより)

山科禮蔵(人文研サイトより)

 山伐り請負業者、西村市助がトゥレス・バーラスの樹海に、最初の斧を入れた1932年から4年後――。
 その北隣のコンゴニャス河畔(現ウライー市)で、やはり日本人による大型の植民地造成が始まり、ここでも西村が最初の斧を入れた。
 この植民地は、実はその14年前に発案され、土地も10年前に入手されていた。しかし着工が遅れに遅れていた。発案者の名は山科禮蔵といった。山科は、知名度は今日では余り高くないが、明治末から大正、昭和の始めにかけて、日本の財界の世話役として種々奔走した人物である。その間二度、ブラジルを訪れている。
 初回は1919(大正8)年で、東京商業会議所の副会頭として訪欧の帰途、立ち寄った。その時、この国の資源の豊かさに驚嘆、それにもかかわらず未開発地が多いことに着眼した。
 二回目は、3年後の1922年である。ブラジル独立百年祭に、日本の実業界の代表者たちを率いて参加した。肩書は東京商工会議所会頭と変わっていた。滞伯中、サンパウロ州奥地や北パラナを訪れ、日本移民に接した。が、彼らの多くが独立農にすらなれず、労務者生活を送っていることを知り、こう嘆いた。
(これでは、日本民族の海外発展とはなり得まい……)
 山科は渋沢栄一を尊敬、実業を通じて、国士たらんとしていた。自然「移民を財界が支援する」という策を思いついた。広い土地を買って植民地を造り、好条件で彼らに分譲してはどうか……と。さらに同種の植民地を幾つもつくって移民を送り込めば、日本の苦痛を和らげる一助になる――と。
 当時、日本は(第一次世界大戦後に発生した)大不況に、国そのものが、のたうっていた。
 山科は、その植民地用の土地探しのため、交通不便の中、北パラナのコンゴニャス河畔を、泥濘を冒して踏査した。(本稿ですでに何度も登場した)カンバラーのバルボーザが、この地域に所有する土地にも足を運んだ。
 日本へ帰国すると、早速、識者のブラジルに対する関心を喚起すべく、啓蒙書を著した。次いで財界人に次々と会って、対ブラジル投資を説得した。而して、まず自ら率先して、ブラジルで拓殖事業を起すべく、南米企業組合という名のシンジケートをつくった。シンジケートとは、今日の「複数の出資者からなる投資会社」に近い。これに多数の財界人を参加させた……つまり株を持たせた。
 さらに政府要人にも面接、対ブラジル移植民事業の国策化を建言、即時実行を慫慂した。この点は筆者の「読み」であるが、前後の流れから、確信を持って、そういえる。
 政府は1924年、それを国策化している。ほかからも種々働きかけはあったろうが、財界の重鎮たる山科の発言力は強かったであろう。(政府がとった施策については『百年の水流』改訂版に詳しく記した)
 1926年、山科のシンジケートは、バルボーザの土地を入手した。広さは1万アルケーレスあった。この土地入手は、在サンパウロの赤松祐之総領事に委任した。赤松は自動車で現地に乗り込み、商談を即決した││という。外交官が民間の土地の取引を代行したことになる。しかも買収時の諸費用を総領事館で負担、後に農作物の試作費として補助金も出した、と記す資料すらある。通常、あり得ることではない。国策化の一環であったろう。

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