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チエテ移住地の思い出=藤田 朝壽=(5)

 また彼は蔵書家でもあった。主に古典が多かった。竹取物語・源氏物語・伊勢物語・徒然草・平家物語・頼山陽の日本外史・樗牛の滝口入道・土井晩翠の天地有情・藤村詩集・九条武子の無憂華・等々の良書ぞろいであった。
 どういう訳か順蔵は私には気持よく本を貸してくれた。
 解らぬながらも古典を借りて読んだことは作歌上非常に為になった。

 聖市のヴィラ・マリアーナに住んでいる鈴木品次にも電話であの当時の作品を問い合わせたが一首も記憶していない、との返事であった。
 ところがこの稿も終わりに近づいた時、「一首だけ思い出した」と電話で知らせて来た。貴重なる一首と思われるから左に記す。

 口にこそ出しては言わね兵となりたき思いは我のみならず

 この歌で思い出したのだが太平洋戦酣のころの彼の作品である。
 青年、品次の真情を吐露して余すところがない。
 品次の兄 初次は吐月峰の号で俳句をよくした。
 長男出生の名付けの祝いに招かれたとき、(私の家とは一の隣であった。)
「一句できました」と言って披露した短冊には

  うれしさや一子生まれし棉の秋

と達筆な字で書かれていた。一家みなインテリであると共に毛筆を得意とした。ブラジルへ来るとき蔵書の他に三百円を投じて静岡の書店で購入したという本は普通の本ではなかった。今、考えると高校の先生方が所有する本であったと思う。
 簡野道明の字源・道明評釈の唐詩選上・下・釈宗演評釈の菜根譚・佐藤一斉の言志録・西田幾太郎の哲学・新渡戸稲造の内觀外望・外觀内望等の良書が石油箱を積み重ねた中にギッシリとならべてある。
 私は驚嘆した。どの本を見ても喉から手が出るほど読みたい本ばかりである。
 品次は機嫌の良いときには気持よく貸してくれた。
 チエテ移住地の一番奥に住んで居た私だが、吉川・鈴木両家のお蔭で良書を借りて読むことが出来たのは大きな幸せであった。
 今も両家には深く感謝している。
 「寄生木」は二号を出して間もなく、バラボニータ区の富岡家がスザノへ移転、鈴木家はアンドラジーナ市へ移転、吉川家は聖市移転で、三号誌で終止符を打つことになった。
 華絵はゆくゆくは移住地の短歌誌として大きく育てたい希望を持っていたのだが万止むを得ぬ次第となった。
 あの当時チエテ移住地はブラジル一の邦人の集団地で(千二百家族)在住していたことを思うと華絵の希望は宜なるかなである。
 戦時下、戦後のわずかな期間ではあったがチエテ移住地の一番奥のアレグレ区で、志津野華絵を師と仰ぎ、二十代に入って間もない青年男女が短歌に情熱を燃やして作歌に励み回覧誌まで出したことは世に知られていない。
 一九八一年、椰子樹社が発行した「コロニア万葉集」の戦前の部に華絵作品は二十首収載されている。(一人二十首限定)他に二十首収載されている歌人は岩波菊治と酒井繁一だけである。
 このことから見ても華絵が如何に秀れた歌人であったかが良くわかる。

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