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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第8回=三好「本筋の人間ではない」

つま先で支えた梯子の上に、子供が立って曲芸をするイメージ(トリタカ日本一座のポスター『サ物語』104頁)

つま先で支えた梯子の上に、子供が立って曲芸をするイメージ(トリタカ日本一座のポスター『サ物語』104頁)

 当時の芸の具体的なイメージが湧かない。
 1886年にブラジルのエスタード紙の広告で「手のひら40個分の怪物〃日本の階段〃(A escada japoneza)。つま先で均衡を保ち、上に子供を載せる曲芸」というものがあった。8・8メートルぐらいの高さの階段(梯子)の上で、子供が曲芸をするようだ。
 前節で紹介した日本人初の帝国日本芸人一座でいえば、おそらく《崩れ梯子上乗りの曲》に似ている。
 《竹製の梯子を定吉の肩に差すと梅吉(少年)が梯子を登り、片足、片手だけで梯子に絡ませて大の字、または逆さ大の字など種々の軽業を見せる。下で定吉がヤア!と掛け声をあげると、たちまち梯子がバラバラにくだけ飛ぶ。あわや上乗りの梅吉は、と上を見あげると半分壊れた梯子の頂上に移っている早業。その頂上で両手足を大きく開いた大の字スタイルで風車のようにクルクル回っているのだった》(『サ物語』40頁)というような芸だったかもしれい。
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 ちなみに、日本人初の軽業師洋行団が米国で公演していたのと同じ頃、1867年1月21日から2月1日まで、幕府からオランダ留学を命ぜられていた榎本武揚ら9人は帰路リオに立ち寄っていた。パナマ運河が開通したのは1914年、それ以前に欧州に向かう場合、南米大陸南端を通って行くのが最短だった。
 1867年当時、《アメリカへはリズリーの率いる帝国日本芸人一座以外に鉄割福松一座、ミカド曲芸一座、大竜一座、早竹虎吉一座などが巡業に来ており、これらの一座も稼ぎの山はやはりパリ万博(註=1867年)であった。曲コマの松井源水一座や鳥潟小三吉らは西回りで直接ヨーロッパへ向かっており、彼らの演じる軽業・曲芸は世界に通じ、欧米のひのき舞台で外貨を稼ぐ当時唯一の芸人たちであった》(『サ物語』29頁)とある。
 同119頁には《わが国でも人気があった竹沢藤治・万治一座も海外へ巡業しており~》とあり、少なくともオーストラリアのメルボルン勧業博覧会(1880年=明治13年)で興行した。さらに《明治十九(1886)年三十日、竹沢万治は、足芸師、若浜市松、上乗、権兵衛、蝶々遣い手品師、柳川一蝶斎らとオーストラリア、メルボルンの勧業博覧会へ雇われ、神戸港から出港している》(『サ物語』128頁)ともある。複数洋行をしていることは間違いないが、残念ながら「ブラジル」の記述はない。
 明治36年(1903年)9月《竹沢万治と洋行帰りの伜の小藤治一座が東京の歌舞伎座で午後四時に開演するとの記事~》(同130頁)とあり、幕末から明治末まで続く息の長い一座であった。
 しかも、小藤治は14歳で単身渡米し、諸座を渡り歩いて技を磨き、稼いだ金を父親の怪我の治療費に送っていた。米国で20歳を迎え、52歳と芸人としては高齢の域に達っしていた万治の跡を継ぎ、衰退していた一座を再興するために帰国して最初の東京歌舞伎座興行がこの記事だった。
 つまり、日本の万治は祖国で晩年を迎えた。この一連の流れから分かることは、ブラジルの「万次」は、日本の「万治」とは違うことだ。
 三好は《どうもブラジルの竹沢万次は本家筋でなく、かつて竹沢一座に加わっていた軽業師の可能性が強い》(『サ物語』132頁)と推測している。前述の「若浜市松」「権兵衛」「柳川一蝶斎」かも…。(つづく、深沢正雪記者)

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