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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第14回=意外なところにラモンの消息

日本帝国サーカスのエピソードが書かれたカラチンガ教会サイト

日本帝国サーカスのエピソードが書かれたカラチンガ教会サイト

 鈴木南樹の記述によれば、ブラジルの竹沢万次は息子「東郷ラモン」に「Circo Imperial Japones」(日本帝国サーカス)一座を引き継いだ。ネットで検索するうちに、その消息が意外なところで見つかった。
 ミナス州都ベロ・オリゾンテから東に300キロほど離れたカラチンガのカトリック教会サイトの歴史頁(15年11月29日参照、catedraldecaratinga.com.br/site/sobre-a-paroquia/historia)だ。
 同教区は1873年に創立された伝統ある地区だが、1900年当時で人口はわずか1万2千人程度だった。日本帝国サーカスが来た1930年頃は大聖堂建設運動の真っ最中、ヴァルガス革命という動乱の時代の始まりだった。
 《まるで革命を避けて走って来るように、サンパウロからこの町カラチンガに、かつて来たことのないような巨大なサーカスがやってきた。高揚感だ。日本帝国サーカスは一時代を作った。まさに革命の間の10月中、この町にいた》
 サンパウロ州とミナス州から順繰りに大統領を出す旧共和制時代の政治的伝統「カフェ・コン・レイチ」からすれば、ワシントン・ルイス大統領(サンパウロ州、任期1926―30年)は、ミナス州知事アントニオ・カルロス・リベイロを指名するべきだった。ところが、彼が後継指名したのジュリオ・プレスチス(サンパウロ州選出)。30年3月1日に実施された大統領選挙に、カルロス・リベイロは敢えて南大河州のヴァルガスを立候補させ、プレスチスの勝利に終わった。
 ミナス州、パライバ州、南大河州を見方につけたヴァルガスは、10月3日に軍事クーデターを起こし、11月2日に暫定政権を樹立、旧共和制に終止符を打ち、翌年には憲法を停止した。その後、15年にわたる独裁政治に突入した。
 そんな激動の10月、万次の息子率いる日本帝国サーカスは、戦場になる可能性のあったサンパウロ州を逃れて、ミナス州の奥地に避難してきたようだ。
 同サイトには、《日本帝国サーカスには巨大で美しい象2頭がいた。こんなにきれいに歯を磨き、よく手入れをされた象は見たことない。道化師、ライオン、豹、ジャッカル。自前の音楽隊、美しい娘たち、珍しい種類の犬や猿にも事欠かない。町の全員が行った。とても明るい照明が灯され、カマロッチ(貴賓室)は真っ赤なビロードが貼られていた》とある。
 おそらく、小さな町で大人数がはいるようなホールがなかったのだろう。《30年革命の町の対策会議は、サーカスの中で行われた。あそこで、革命の前線への志願者送別会も盛大に行われた》。まさに町の歴史に残るサーカスだった。
 その頃が、日本帝国サーカスの全盛期だったのかもしれない。カラチンガ滞在の十年後、鈴木南樹が書くように1940年6月9日、ミナス州都ベロ・オリゾンテで長男のラモン、芸名「Togo(東郷)」がピストル自殺した。破天荒な明治の日本人の末裔の、あっけない最後だった。
   ☆   ☆  
 実は笠戸丸以前から、ミナス州と竹沢万次には縁がある。前述の鈴木南樹『足跡』には、万次自体の節以外にも、万次にふれた部分がある。初めてブラジル有望論をぶって日本移民導入への道を開いた外交官、杉村濬が1905年、ミナス州に視察に行った折、《ミナス州首都の歓迎会の席上「日本人とは軽業師の様な人間だと思っていた」と告白されて赤面したと云うことである。
 この軽業師と云うのはもちろん彼の竹沢万次を指したものである。我々がよく「日本に電車はあるか」と云われて腹を立てたものであるが、杉村公使は軽業師と思われるほどまだ『日本』と云うものがブラジルに理解されていなかったのである》(60頁)
 そのような経験を経て外務省から1905年6月に出版された『サンパウロ州視察報告書』の有望論を見た水野龍が、急きょブラジルに向かい移民契約を結んだ。このように、水野龍以前からブラジルでは「日本人といえば軽業師」と知られていた。(深沢正雪記者)

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