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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第22回=伯国に根付いた極東起源の曲芸

まさに棒の上で曲芸をするもの。当時、最も西洋で注目された芸だ。1890年代にニューヨークで公演した両国一座のポスターから(『サ物語137頁』)

まさに棒の上で曲芸をするもの。当時、最も西洋で注目された芸だ。1890年代にニューヨークで公演した両国一座のポスターから(『サ物語137頁』)

 玉置ヴェロニカさんに「万治はチャリニ・サーカス団に同行して渡伯したのではないか?」という説をぶつけると、「私は日本人サーカス団の一員として来て、ブラジルに留まったのだと思う」との南樹以来の伝統的な考えの支持者だった。「何らかのサーカス団と一緒に来て留まったことは確か。サーカス興行と同時に、絹とかの行商もしていたとの話も読んだ」という。
 「サツマ・カンパニーが1873年にリオで公演していると推測されるが、何か記録はないか」と尋ねたが、「その名前自体を聞いたことがない」とのこと。ウルグアイや亜国と違い、当地では専門家ですら知らない存在のようだ。
 竹沢家の連絡先を知らないかと尋ねると、「昔は連絡があったけど、今は失ってしまった」と残念そうに答えた。ブラジル人芸人で日本初上陸者ピー・サントスについても「知らない」との答えだった。さらに「万次がドン・ペドロ二世の体育教師をしていたと伝えられているが、ありえるか?」と訊くと、「それはありえない。馬の調教をしていたのはチャリニであって、万次がドン・ペドロに仕えていたというのは考え難い」との意見だった。やはり日本語だけで伝えられている内容には、現地専門家と噛み合わない点がある。
 伯国サーカス界への竹沢家の貢献は―と尋ねると、「ブラジル・サーカス界の重要な構成要素であり、その存在は大きなものだった。一世紀に渡って残した文化的な足跡は、オリメシャ家と共に何ものにも代えがたい。劇場文化をブラジルに植え付けた最初の功労者の一人」と高く評価した。
 その言葉を聞いて、CMC(サンパウロ市立サーカス記録センター)の展示の一つを思い出した。「Percha」(ペルシャ)という芸の説明だ。《1853年にサーカスに取り入れられたもので、ペルシャは極東に起源をもつ。木製や金属製の長い棒をよじ登り、その上部で曲芸を披露する。「Percha Porto」は、肩や頭、額、腹、手、足で棒を支える。「Percha Fixivel」は棒を床に固定し、その分、高い位置でバランス芸をする》(意訳)。

棒の上で行うこの曲芸には《極東に起源がある》との説明がCMC展示にある

棒の上で行うこの曲芸には《極東に起源がある》との説明がCMC展示にある

 この〃極東〃は日本を含む地域であり、ブラジルに影響を与えた外国出自のサーカス団リストに、アジア系は日本人しかない。これは、日本からブラジルに伝わったと考えるのが妥当だろう。
 日本で「1853年」といえばペリー浦賀来航の年だ。日本人最初の軽業師洋行団「帝国日本芸人一座」は1867年1月から米国公演を開始している。1870~90年代に盛んに洋行した曲芸団のポスターには、まさしく棒の上で曲芸をする絵が描かれている。
 このような形で、影響は残るのだろう。
 万次が死んだあとラモンは一座を維持できず、息子のラモンはケーロロ一座に入って働き、妻の強い勧めで医者にいくと言って家を出て、サーカスの化粧部屋でピストル自殺を図った――という物悲しい結末を一族の物語として南樹は残したが、現実は大分違う。伯国史の一部にしっかりと組み込まれ、一般の日本移民とはまったく隔絶されたサーカス・コミュニティの中で、そのDNAは生き続けた。(つづく、深沢正雪記者)

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