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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第10回=南樹と符号するチャリニ同行説

チャリニ曲馬団、2度目の南米縦断公演のルート(ロペス論文)

チャリニ曲馬団、2度目の南米縦断公演のルート(ロペス論文)

 ロペス論文によれば、チャリニCの第1回南米巡業ではチリ、亜国から北上して1871年~72年に南大河州、リオ、バイア、ペルナンブッコ、パラーと北上した。
 第2回南米巡業では1875年10月~77年5月にほぼ同様のルートを逆に南下した。ブラジル帝政末期の海岸部の主要都市を総なめにするルートだ。
 1880年代は北米とアジア、極東を中心に巡業し、南米には来なかった。
 最後1890年代にチリ、亜国など長期間の第3回南米巡業をしている。でも、なぜか、この時にはブラジルに寄らず、太平洋側を北上して1897年4月にパナマでジゼッペ・チャリニは没した。
 その間、日本には1870~80年代になんと3回(!)も巡業(上陸)している。第1回目=1874年9月(同論文56頁)、第2回目=1886年6月、第3回目=1889年5月だ。特に74年の後はペルー、アルゼンチンを通って伯国巡業(57頁)をしている。
 もし万次が、この時に一座に同行すれば、まっすぐに伯国へ来れた訳だ。第2、3回目は同じアジア巡業で2回立ち寄った形だ。
 このサーカス団は日本でも有名で、東京で明治天皇皇后両陛下がご覧になる天覧の栄誉に浴している。《明治十九―二十二年頃は日本各地、上海、香港、マカオ、シンガポール、インドなどの東洋方面を主に巡業していたが、ブラジルで巡業を終え、同国王ドン・ペドロの個人調教師となり、リオ・デ・ジャネイロで没した『学鐙』(一九七四年十二月号)にその研究成果が発表されている》(『サ物語』172頁)と書かれている。
 つまり、チャリニCの一員がドン・ペドロ二世に気に入られて個人調教師になったのであれば、それに同行していた竹沢万次も体育教師に雇われてもおかしくない。ドン・ペドロ二世に寵愛されていたのなら、帝政崩壊(1889年)後には伯国に立ち寄らない方が自然であり、合点がいく。
 1874年の訪日時に万次が同行して渡伯したのなら、当地は帝政であり十分可能だ。この「チャリニ同行説」は可能性が高そうだ。
 この翌年10月からブラジル巡業をしており、その時にリオでドン・ペドロ皇帝による天覧興行をしている。そこで気に入って当地に居ついたのであれば、鈴木南樹の記述とかなりつじつまが合う。
 鈴木南樹が描く「竹沢万次」と、チャリニの話にはもう一つの類似点がある。《万次は珈琲の大景気の波に乗って自らシルコ(サーカス)の一座を組織し、ブラジルはアマゾナスから、リオ・グランデ・ド・スール州はもちろん、ウルグアイ、アルゼンチンまで股にかけて興行してまわった》と南樹は書いた。
 このルートはチャリニCによる2度目の南米縦断公演(1875年~77年)とまったく同じルートだ。日本の第1回公演が1874年9月であり、その翌年にブラジルで、しかも同じルート、さらに南樹がいう「1870年頃」に相当近い。
 異なるのは、万次が《自らシルコ(サーカス)の一座を組織し》という部分。もしかしたら万次は、鈴木南樹が情報源とした人物と話す時に、本当はチャリニCの一員でしかなかったのに、あたかも「自分の一座」であるかのように誇張して語った可能性がある。そうであればほぼ全て辻褄が合う。(つづく、深沢正雪記者)

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