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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(99)

 勝山さんは「正直、真面目、勤勉……」と言って、一寸困った様に笑った。言わんとすることを、適格に表現できないもどかしさを覚えているようだった。
 筆者が、ある知人から聞いた話を思い出して、「昔の親は、皆、日本人の恥になることをするナ、と言って子供を教育したそうですが……」と言うと、「そッそー、それ!」と、やや興奮した声が返ってきた。
 当時は日本語を教えながら、修身も指導した。 実は、ここから、筆者が書きたいことの核心に入るのであるが――勝山さんたちは、1970年代に日本語学校を閉じてから、子供たちがブラジル式に、変に悪い方向へずれてゆく兆候を発見、憂慮して、再開を考えたという。
 つまり、そのための日本語学校再開だったのだ。徳育が主眼だったわけである。
 昔の日本語には、鋭く人の心に響く簡潔な言葉や文章が多かった。内容は殆どが生きる上での訓えであった。日本人の恥になることをするナ――も、その一つで、外国で生活する子供たちに、民族の誇りを背負わせるほどの迫力があった。子供たちの心に浸み込み、矜持となった。その矜持が、彼らがブラジル式モラルに染まることを防いだ。
 ブラジル式モラルでは、表向きは善を語り、裏では機会あれば悪を働く。悪を働いても、それが露見しなければよいと割り切る。最近のペトロブラスの大汚職を見るまでもなく、昔から続いていることである。
 が、戦前の日本人は、日本に帰国することを前提にしていたから、子供が、このブラジル式モラルに染まることを許さなかった。それと、戦後のある時期までは、子供たちは、小学校を了えると、農場で働いた。あるいは半日だけ中学に行った。以後は農場で殆どの時間を過ごした。だからブラジル式モラルに染まる機会が少なかった。
 しかし、ひと世代後の戦後派……つまり自分たちをブラジル人と思って育った二世の間では、日本式モラルは魅力を失った。日本が戦争に敗れ、そのモラルに対する評価が崩れたことによる。
 それと、戦後派二世は、ある時期から、高校、大学と進む者が増え、ブラジル人社会に入り込み、高い地位に昇り高収入を得るチャンスに恵まれた。
 そのチャンスをつかむために、ブラジル式モラルに自ら染まって行く人間が増えた。そうしなければ、チャンスを逸するのである。今日、ハイソサエテーに属する日系人の中には、色濃く染まっているケースが少なくない。それを裏付ける情報が、巷には幾らでも伝わっている。
 ブラジル式モラルに染まって後ろ指を指されながら得をするか、日本式モラルを受け継いで損をしながらも、誇り高く生き、この国を僅かずつでも良くして行こうとするか……考えてみれば、名答を出すのは至難の課題である。
 が、マリンガー日本語学校を再開した人々は、子供の頃に学んだ恥の精神を選んだようである。
 再開25年、教育効果は出ているという。
 もっとも今も「日本人の恥になることをするナ」という表現を使って指導しているわけではあるまい。現場の教師に話を聞くことはできなかったが、生徒をブラジル人と認識、別の表現を使って指導している筈である。
 なお、再開後の日本語学校が軌道に乗ったのは、姉妹都市の加古川市の協力によるところが大きかったという。6教室その他から成る「加古川マリンガー外国語センター」を建ててくれた。アセマ(塩崎アフォンソ会長)の敷地内にあり、英語教育の施設なども整っている。JICAも指導員を派遣して、協力してくれた。
 ちなみに、校長は前出の駒込伝三さんである。この人もブラジル生まれである。
 思えば、日本語学校の経営も一つの事業である。このマリンガーの日本語学校の場合は││コチアとインテグラーダの関係とは違って││一度消えた白い雲が再び現れた……と表現してよかろう。
     ◎
 北パラナの開発は、イヴァイー河で終った。しかし、開発前線そのものは、さらに西北パラナ(パラナヴァイ方面)、西パラナ(シアノルテ、ウムアラマ方面)、西南パラナ(カンポ・モウロン、ゴイオエレ方面)へのびて行った。
 日本人・日系人も、その流れの中に無数にいた。時期的には1950年代以降のことである。(第一部『北パラナの白い雲』終了)
▽終章=引用資料
中西周輔『北パラナ国 際植民地十五周年史』、パラナ日伯文化連合会『パラナ州日本人移民史』、高知県『移民の風土』、パウリスタ新聞『在伯日本人先駆者列伝』
▼謝辞
本稿(北パラナの白い雲)の取材には、池田マリオ、山川精二両氏ほか多くの方々にご協力をいただきました。深く感謝申し上げます。

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