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「ある日曜日」(Um Dia de Domingo)=エマヌエル賛徒(Emanuel Santo)=(15)

 握手と名刺交換のあと、木村社長は、わざとらしいほど気さくな態度で話し出した。
「ジュリオさんですね。南米にいた頃、時々お名前をお聞きしましたよ。我々の先輩として活躍されていたそうですね。日本には永久帰国ですか」
「はい。もう金儲けには飽きたんで、これからの人生はゆっくりと楽しみますよ。今日は、お忙しいところ時間をいただき、ありがとうございます」
「いやいや、こちらこそ。取材していただき光栄です」
 それから1時間以上、木村社長は、熱っぽく取材に応じてくれた。
 木村氏は、幼い頃離婚した両親のどちらにも引きとられず、里親にあずけられて育った。
「もう亡くなりましたが、私の里親は、二人とも朝鮮生まれです。朝鮮ではそれなりにいい生活をしていたそうです。でも、戦争ですべてを失い、やっとの思いで帰国して、日本にいた彼らの親戚を頼ったそうですが、みんな居候には冷たかったそうです」
「あの頃、日本人の多くは食っていくだけで精いっぱいでしたからね」
「でも、彼らを助けたのは、普通の日本人よりもっと苦しい生活をしていた『在日』の人達だったそうです。私を里子にしてくれたのは、彼らに子供がなかったのと、行き場のない人間の悲しさを知っていたからでしょう」
「大人になるまではどんな生活を?」
「里親はよくしてくれました。でも子供の頃は、本当の両親と一緒に住んでいないという理由で、いろいろとつらい思いをしました。大人になってからは、就職するにも、女性と交際するにも、家庭環境が普通じゃないと苦労することを知りました。自分を見捨てた親や、自分にチャンスをくれない日本の社会を、いつか見返してやると思っていました。成人してからは里親のもとを離れ、ある中堅商社で下働きしながら、夜間大学を卒業しました」
 そんな木村氏の人生に、やがて転機が訪れた。バブル期に、勤めていた会社からもらう給料やボーナスが右肩上がりになっていた頃、遊ばずに貯金した500万円をある株式に投資したところ、運よく大当たりした。彼が賢明だったのは、株で儲けた金を不動産の購入などに使わず、昔からの夢だった自分の会社を設立するための準備金として蓄えたことだ。
 バブル経済の崩壊が確実になり、勤めていた会社の経営にも蔭りが見え始めた1990年代の半ば、木村氏は会社を退職し、新規ビジネスの可能性を探し求めて半年間南米各地を旅した。
「実は以前から、日本では浮かばれない私も、海外に行けば飛躍のチャンスがあるかもしれないと、勝手に思い込んでいました」
「でも、なぜ南米に行かれたんですか」
「たまたま、在日韓国人の友人が、南米に移住している知り合いを紹介すると言ってくれたからです。南米にはまだまだチャンスがあるぞと聞いて、その気になって、地球の裏側まで行ってしまいました。でも、ジュリオさんの頃と違って、飛行機に乗ればすぐでした」
「商売のネタとしては、どんなものを探されたんですか」
「あの頃の日本は、『飽食』のバブル時代が終わり、健康的なものとか、癒し系のものを追い求める風潮がありました。そこで、パラグアイではダイエット効果があるハーブティーに、ブラジルでは有機栽培のコーヒーに目を付けました。商社時代に身につけた感で、こいつは儲かりそうだと思い、現地の生産者と直に取引して、日本に輸入することにしました」

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