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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第23回=芸をする万次の貴重な写真

竹沢万次が足芸を披露している貴重な写真を収めた『O Circo no Brasil』

竹沢万次が足芸を披露している貴重な写真を収めた『O Circo no Brasil』

 「この本は見たの?」とヴェロニカさんが本棚から持ってきたのは、『O Circo no Brasil(ブラジルのサーカス)』(アントニオ・トレス、Funarte=ブラジル芸術基金刊、1998年)という分厚い本だった。
 実物を初めて手にするが、サーカス関係の論文で頻繁に引用されている貴重な資料だ。ポ語、英語、スペイン語が並記されており、国際的、学術的に利用されるために同基金が編纂したことが分かる。
 手に取って万次のページを探しながら、目が大きくなり、眉毛が上がるのが自分でもわかる。
 「あった!!」――万次本人や家族の写真、しかも足芸をしている写真まであった。今まで歴史の彼方に霞んでいた伝説的な人物が、急に身近な存在になった感じだ。情報的としては、すでにその内容があちこちの論文に引用されており、目新しいものはないが、初めて見る写真が何枚もある。
 南樹は《子息として四人の男と三人の女がいる。何れもシルコの芸人である。男の方はすらりとして丈が高く、日本人の血統は争われないように観取されるが、娘の方は小太りの方で、白粉を塗ってシルコの舞台に踊っているのを見ると疑うべくもない白人である》(52頁)と書いている。でもこの本の写真を見る限り、今の基準であれば《疑うべくもない白人》というほどの感じはしない。
 むしろ混血の割には、意外なほど日系人らしい特徴を顔や身体に残しているようにすら見える。
 そしてオリメシャ家の写真も豊富に掲載されている。フランキ・オリメシャの渡伯年も1888年と明記されている。
 この本は、彼らはサーカス界に燦然と輝くスターとして、ブラジル近代史に刻まれている証拠だ。
 ヴェロニカさんに「戦前のサーカスの役割」を聞くと、「テレビや映画が一般化するまで、サーカスは文化的娯楽の代表だったのよ。辺境に住む多くのブラジル人にとって、巡業してくるサーカスは初めて文化に触れる場だった。一度にたくさんの人に伝えつつ、全伯を巡回したから、当時としては一種の〃大衆向けメディア〃といえる存在。だから、サーカスの花形は本当のスター、庶民の憧れのヒーローだったの」と勢い込んで話した。いかにもサーカスが好きでたまらないといった風情だ。テレビがなく、ラジオすら珍しい時代、最大の文化的娯楽はサーカスだったようだ。
 研究者かと思い、聞いてみると、大学教授ではないがサーカスに関する著作を2冊も出している専門家だ。
 一つは記録文学『Circo Nerino』(2004年、Pindorama Circus社)で、ジャブチ賞の候補にも挙がった。もう一冊は小説『O Fantasma do Circo』(ロブソン・ブレヴィジリエリ・エジトーレス刊、2000年)で、有名な編集者オオノ・マサオが手掛けた。
 「当時、サーカスの歴史について書かれた書物は少なかった。サーカス学校の先生たちから聞いたコミュニティの逸話は、口承で伝えられてきたものばかり。サーカス団自体の生活や内部の出来事自体がとても興味深い、面白い話ばかりなのよ。面白がって聞いて回っていたら、ピオリン・サーカス団やネリーノ・サーカス団の関係者からまとまった資料を寄贈されたの。すごい量だった。この広間が埋まるぐらい。それで、市文化局に相談して、この記録を残し展示する博物館としてCMCを作ることになったの」という。だから彼女がキュレーターになった訳だ。(つづく、深沢正雪記者)

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