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自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(3)

 その頃、進駐軍の車は皆な「ガソリン車」で有った様だ。太郎の田舎の車は、いや、日本全国では木炭車が殆どの時代だった。将来は日本も「ガソリン車の時代」が早急に来ると信じられて居たのである。大阪に行くと言っても今時の社員とは雲泥の差があった。仕事は「丁稚奉公」並みなのであった。見習い修業は想像を絶する努力と辛抱を要する重労働であった。
 太郎の兄は四、五年も辛抱すれば、我が町で最新型自動車修理工場が開けると大きな夢に胸ふくらましながら大阪へと旅立っていった。その兄は修業に勇んで出掛けて行った。が、しかしこれが彼には最悪の人生に繋がるとは、当時、誰一人思う者はいなかった。
 その後、彼は寝食を忘れ、仕事に没頭して行く。その結果、宿舎に戻らず、工場内の車の中で寝る日が続いた。その結果、当時は不可解な「揮発油性骨軟症」という難病にかかり、大学病院で三年間の闘病生活後、二十三歳で他界した。ただただ冥福を祈るのみの千年家であった。
 これも我が家の貧乏ゆえと、太郎は断腸の思いがした。世の中の戦争を忌み嫌う人生となって行く太郎少年、十五歳多感な働き者となって行く。十六歳で久留米市内の駄菓子屋に奉公に出されるが、ここは将来性なしと一年後に呼び戻される。
 次は地元醤油工場で働く事となるが、こちらは、体格が今一つ低く、体力的に不適格で、こちらも一年足らずでお暇となった。こうなれば親戚筋の建築家に頼み込み、大工見習いになるほかなく、こちらは「兄弟、弟子」もおり、身のこなしもまあまあとあって、太郎は仕事に精を出す。しかしこれまた厳しい修業で有る。朝五時からの朝食作りは新弟子の仕事だ。夕食は一番最後、風呂に至っては「兄弟子達」の後。「仕舞湯」とは一回沸かしたお風呂で数人、それもたくましい兄弟子達の汗だらけのぬるま湯である。
 日本の弟子入り修業とは、口では表現できない程、独特の上下関係があり、上司が山と言ったら山は山、川と言ったら川なのである。決して反論は許されない。それが当たり前の世界なのでありました。だが大工仕事自体は太郎に向いているようで、伸び伸びと動き廻る身軽さで、木材を担いで棟木の上をスイスイと歩く。どうやら大工仕事は太郎の性根にあっている様である。師匠兄弟子にも可愛がられ、メキメキと上達。十九歳で免許皆伝、めでたく一人前の職人となる。
 昭和二十九年の九州を襲った台風では筑後川が氾濫、大暴れ死者が出る家は流される。田畑は表土が流され、石ころだけの荒れ地となった。太郎は大自然の脅威をまざまざと体験。これ以外にも日本列島の自然災害には、日ごろから人間の無力さ感じていた。それ以外にも、太郎は色々余り触れたくない人知れず思い出の痛みを背負ってもいる様だ。
 今日まで育ててくれた家族に感謝と親に報いる孝行は常に忘れてはいなかった。今日まで言わず語らずとも、いかなる少年期を過ごして来たか、想像出来るのである。それにつけても、彼の持って生まれた性分であろう。辛い過去は微塵も口にすることはなかった。
 むしろその事が、彼の前向き志向となり、世の中の悲哀不幸を善意に導く人生、人情となり、常に明るい千年家代々の家風に反映されておる様だ。そして月日は流れ、昭和三十年(一九五五年)頃の日本は戦後復興も徐々に進み、「上向きの兆し」が見えてきたころ、太郎は二十歳を迎えていた。

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