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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(10)

 池田アントニオ(本名・龍生)はサンパウロ州の奥地、アシス市に住んでいた。実家は大阪で狩猟用の武器製造工場をもっていたそうだが、ブラジルでは刃物製造に従事していた。たぶん、狩猟の武器との連想からか、射撃手としての名声が広まったものであろう。
 彼は武器には強い関心を抱いていて、家の地下室には多くの銃が、まるで戦争博物館のようにあったという。全部ぴかぴかに磨かれていて、いつでも使用可能なものばかりであった。兵譽は一度その地下室へ招かれ、いくつかの銃を手にとってみる機会があったが、ドイツ製のモーゼルや、オーストリア製のグロック、そして一九〇〇年に製造されたアメリカのコルトなどもあった。
 兵譽は、銃のすきな友人に奥地を回っている時はどのようにして食いつないでいるかを語っている。日本人植民地へ行き、武術の型を披露していたというのである。というのも、彼は日本で学生生活を送っていた頃、柔道や空手の稽古を受け、刀の使い方も教わっていた。彼らはそれぞれ、自分の特技を生かして生活していたのである。
 ヨーロッパでの戦争がはじまると、兵譽も家から蒸発するようにいなくなった。一時サンパウロ市内に在住し、日伯新聞や雑誌「オ・クルゼイロ」誌で翻訳の仕事を請け負っていたようである。戦争はブラジルの日常生活に影響を及ぼすことはなかったが、空爆の恐れがあるとか、ナチの潜水艦がブラジル沿岸を襲ってくるとかいった噂が飛び交ったりしてはいた。
 また、その頃、サンパウロやリオ市内で停電に備える訓練が行われ始めた。決められた時間に、町の灯が消され、ボランティアの一団が懐中電灯を照らしながら市中を見回る。家でろうそくやランプも点けずじっとしているか、停電に協力しているか、を確かめるために見回っていたのである。飛来するかしれない敵の飛行機の注意を引かないための訓練だったのだ。
 戦争は新聞紙上を賑わしてはいたが、遙かかなたのヨーロッパでの戦いのことであり、誰も怖いとも何とも思っていなかった。新政権はこの歴史的な出来事を利用し、国民の団結と生活をきりつめ必需品が不足することを回避するよう告知していた。国民全員が節約しなければいけないのだった。
 とはいうものの、一九四〇年代はサンパウロの町は賑わっていた。工業活動も盛んで、車が行きかい、通勤する人々、制服を着て通学する学生、ショッピングに明け暮れる女性たちなどで賑わっていた。戦争は世界の向こう側で起きているのだ。日常生活のパターンを変えることなどないと国民は信じていた。国民にショックを当たえるような出来事が起こらない限り、平穏無事な生活を変えることはなかった。
 それでも、独裁者ゼツリオ・ヴァルガスの要請で、牛肉の値段は凍結され、肉屋は一人あて一キロしか売られなかったし、麦の国際市場が高値となり、今日では多くの人々が食べている黒パンが出回った。車もガソリン車をやめて、木炭燃料にしたミニ発電機を車の後方に取りつけ、美観を壊すような代物だったが、機能的には優れたものだった。
 一九四二年になると、事態は変化した。ブラジルの船が国の沿岸線で沈められるようになり、戦争が深刻さを増したことをブラジル人も感じるようになった。そして兵譽は相変わらず三年近くも音信不通の状態がつづいていた。
 貨物船「パルナイーバ」や「アレグレッテ」が最初に沈められた。三隻目は貨物船「コマンダンテ・リラ」だったが、爆撃はされても沈没は回避できた。他に「ペディリニャ号」がニューヨークに向かう途中で襲撃され海底に消えた。その他にもブラジルの船舶が襲われ、難破するというニュースが相次いだ。
 「バエペンディ」「アララクァラ」「アニバル・ベネーヴォロ」「イガジバ」「アララー」「ジャシラ」「ブアルケ」「オリンダ」「アラブタン」「ゴンサルベス・ディアス」、そして「ポルト・アレグレ」といった船が戦争の被害を蒙っていた。
 その後にも一四隻の船がブラジル沿岸でナチの攻撃を受けて沈められた。国民の感情は海岸に遺体が流れ着いてくるのを目の当たりにして、憎悪に変ったのである。
 もはや、遠い国のできごとではなくなり、サンパウロ、リオ、サルバドールなど、でこのような殺戮行為には報復すべきだというデモが、学生を中心にして興った。政府は閣僚を召喚し、臨時国会を開き、ドイツおよびイタリアに宣戦布告をした。それは一九四二年八月二二日のことだった。

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