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自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(37)

 さもありなん。彼女は父親が有名な職人気質の庭園師で、名の知れた厳しい人。質素倹約を旨とした、誠に大和民族の誠心を子孫に残すのが趣味みたいな人物の頑固おやじ。子供たちにも厳しい人と噂があった。その家族の長女である。根性も座っていた。美人だが中小企業庁の公務員と聞いていた。
 千年太郎の活動は、どうやら軌道に乗り、多忙な日が続いていた。そんなある日の真夜中、けたたましく電話が鳴った。その電話の主は、正しく須磨子さんである。
「モシモシ」と言った途端に、ワッと須磨子さんの激しい鳴き声である。
「須磨子さん、どうした」
「千年さん助けてー」
「どうしたの。落ち着いて、落ち着いて」と太郎。「母ちゃんが倒れたの。病院よ。急いで来て」と取りみだしている。 
「千年さん、お願い助けて」
「どうしたの」
「母が倒れたの、脳梗塞らしいわ。直ぐ来てほしの。至急、手術らしいの○○病院よ」
「よーし、わかった。明日の朝早く行きます。いやいや、今直ぐ来てほしいの。ウルジェンチ(大至急)お願い」
「よし、今すぐ行きます。一時間くらい待って」といって、電話を切った。太郎は妻に事の次第を話し、車を出してサンパウロへと猛スピードで走り出した。真夜中の国道だ。路は空いていた。午前二時に病院に着いた。
 カンピーナス市からサンパウロ市まで百キロメートルはある。須磨子さんが病院の玄関で待っていた。
 千年を見るなりワァッと泣きだした。
「どうしましたか」
「千年さん、母さんを助けて」
「解かった。どうしたの」
「お金が足りないの」
「解かった、解かった。ちゃんと話して。何に入院費が足りない。して、いくら足りないの。何にキンゼミル(1万五千クルゼイロス、当時約六十万円)。解かった。僕についておいで」と事務所に向かい、そこで小切手を切った。手続きは済んだ。
 待合室には兄弟姉妹が集まっていた。千年は、全員に挨拶して、「皆な心配だろうが、取りあえず、命は大丈夫らしい。事務所に着いてすぐ、施術をお願いしたから、そろそろ結果が解かるよ。しばらく待とうネ」と言った。
 そうして、二時間――。皆がいら立ち始めた。そこへ医師が這入ってきた。笑いながら「もう、大丈夫。安心なさい。詳しい事は五時間位でわかりますよ」と知らせてくれた。
 須磨子さんは、千年の胸で嗚咽していた。顔を上げ、涙顔を拭きながら、ニコリと微笑んで、千年の手をしっかりと握り占めていた。その後、順調に進み、後遺症も特段危険はなく、皆な普段の生活に戻っていた。因みに須磨子さんには、兄弟姉妹はいたが、世間同様、母子家庭には充分な余裕はなかったようだ。施術費は、千年の好意で半額を援助した。
 その後、二年は必要以上のお付き合いはしなかった。さてそれから二年半、ブラジルは一九九〇年の最悪インフレに、千年君もピンチの日本へ夜逃げ同様、人知れず出稼ぎ敢行。サンパウロ・グァルーリョス国際空港に姿があった。
 バリグ航空機に乗り込み、飛行機が水平飛行になった途端、「千年さん」と声を掛けられても、何かの聞き違いか、空耳かと知らない振りをしていた。だが再度の呼び掛けに、声の方角に顔を向けた途端、度胆を抜かれた。そこに、あの須磨子さんが立っているではないか。須磨子さんに助けられて、千年君は二年半が経っていた。