ホーム | コラム | 樹海 | 改憲を巡るブラジルからの視点

改憲を巡るブラジルからの視点

三国同盟戦争を描いた絵画『我が子の遺体を前にするパラグアイ兵』ホセ・イグナシオ・ガルメンディア(スペイン語版、By José Ignacio Garmendia (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons)

三国同盟戦争を描いた絵画『我が子の遺体を前にするパラグアイ兵』ホセ・イグナシオ・ガルメンディア(スペイン語版、By José Ignacio Garmendia (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons)

 先日、某全国紙の特派員と話していて「ブラジルのマスコミはすごい」という話になった。ジウマ政権を倒すまでは徹底的に与党PTを叩いていたが、テメル暫定政権になっても手を緩めず、続けざまに3大臣が辞任するようなスキャンダルを暴いた。「あのようなことは日本では難しい」とその特派員は悔しそうにつぶやいた。もしも、ある新聞が自民党を支持しているから安倍政権批判には手加減するとか、民進党支持だからその批判を控えるという傾向があるとすれば、本来の「言論の自由」ではない気がする▼とはいえ日本でもブラジルでも政治の話題は本当に難しい。各人の考え方や感性があり、言論の自由が保障された世の中である限り、新聞にもいろいろな意見が乗るべきだと思う。今回の日本の参議院選で与党が3分の2を確保して改憲への道を開いたことに関し、先日、編集部内でも議論になった。これは賛否両論があって当然だし、それが民主主義だと思う▼コラム子はその時「改憲賛成」と主張した。ただし、正確にいえばコラム子は「改憲派」ではなく「創憲派」(今勝手に作った造語)だ。日本の憲法は日本人が作ったものではない点が気にかかるからだ。憲法は国の背骨だと思う。その国の人間が喧々諤々議論して作るのが大原則であり、間違いがあれば後から改正すればいい。でも、今の日本でいきなり「作り直し」という議論は難しいだろうから、まずは「改憲」という形で「金科玉条」ではないことを示す―という意味での改憲賛成だ▼理想なのは、数年がかりで国民的な議論をする中で、世代を超えた政治への関心を呼び起こし、一から憲法を作ることだ。その結果、新憲法が現憲法と全く一緒なら、それはそれでいい。自分が内容を議論したわけでもない憲法を、後生大事に一言一句変えないで戦後70年間も守ってきたことは、実はかなり奇異だ―とブラジルに来てから気付いた▼だいたい当地では戦後2回も自国で憲法を作った。どうして、それが日本にできないのか―とまず不思議に思った。当地では現状に合わなくなると毎年のように改正する。当地に来て、それが普通ではないかと思うようになった。改正するたびにマスコミを巻き込んで議論を積み重ねる。それが民主的なプロセスではないか▼日本の憲法に関して論争の的になっている自衛隊に関しても、コラム子は単純に「普通の軍隊」にすればいいと思う。ブラジルにも軍隊はあるが別に戦争はしていない。「改憲」=「改悪」、「日本が軍隊を持つ」=「戦争をする」という先入観がまずオカシイ。そんな議論がまかり通っているうちは「戦後」は終わっていないと思う▼「軍隊を持つ」=「危険」なのではなく、軍隊が独走できないガッチリとした民主的な組織を作ることが大切なのではないか。ブラジルは三国同盟戦争(1864~1870)以来、146年間も本格的な地域戦争を経験していない。ブラジルにできることが、どうして日本にできないか。その点は、当地に学ぶべきことがあると思う▼少しでも隙を見せたらだまされる当地の日常生活の中から学んだのは、たとえ国レベルであれ、まず相手を疑ってかかるのが西洋流の処世術(外交)である点だ。誰も攻めてこないように周辺諸国とのたゆまない外交努力をすることが、「平和」という薄氷を踏むような均衡状態を作ることではないか。主体的な外交を抜きにして、武力放棄だけしても平和になるとは思えない。周辺諸国との平和を維持するには、まず他の国々と同じ出発地点に立って、対等な関係を作り直した方がいい。つまり日本人が自らの憲法を作り、主体的に外交を展開することだ。(深)

image_print