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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(2)=開拓地プールでカエルと泳ぐ

パウリスタ新聞1952年8月3日付では岡本の五輪3位はトップ記事でも、その次の左カタでもなく、「3段記事」扱いだった。でも当時の伯字紙は大見出しで報じていた

パウリスタ新聞1952年8月3日付では岡本の五輪3位はトップ記事でも、その次の左カタでもなく、「3段記事」扱いだった。でも当時の伯字紙は大見出しで報じていた

 父専太郎はいわゆる農業移民ではない。1892年北海道札幌市生まれのインテリで、測量技師の資格も持つ自由渡航者として1912年にイギリスからアマゾンを経て入伯した。母ツヨカは福岡県の出身だった。
 専太郎は息子に「お前はサムライの子孫だ」と説いたほどだから、実際に士族の出で、明治期に本土から北海道開拓に入った家系かもしれない。
 1924年のイジドロ革命時にはサンパウロ市のコンデ街で生活し、大正小学校(1915年創立)の後援会が創立した時(1920年)、発起人の一人に入っている。革命の年にドアルチーナに移転、1932年からマリリア(1929年市制開始)へ移り、戦前の同市における日本語教育界の重鎮となった。
 専太郎はマリリア市日本人会の会長も務め、パウリスタ延長線教師連盟やパウリスタ教育会の創立に尽力した。この教育会が毎年、資金を集めて修学旅行、作品展覧会、学芸会、陸上競技会、柔剣道大会を開催した。日語教育が華やかだった1937年当時、汎マリリア地域だけで1740人の生徒が在籍していた(汎マリリア三十年史『豊原』1959年、中村東民、『三十年史』刊行会)
 哲夫は1932年3月21日にそこで生まれた。哲夫の出生届け番号は町で36番。市制開始からわずか3年。現在では20万人を数える地方中核都市の、最初期の一人だ。兄は良夫、姉には良枝、鈴枝、国枝を持ち、末っ子だった。
 哲夫が泳ぎ始めたのは7歳、ちょうど太平洋戦争開戦直前の1940年頃だ。小児ぜんそく持ちだった哲夫は、親の薦めで身体を鍛えるために水泳を始めた。
 パウリスタ新聞1952年9月18日付によれば、熊本県八代郡出身の戸崎新蔵と山崎用一が、1940年10月8日に私費で自分の農園の中に「日本人プール」を竣工した。長さ25メートル、幅12メートルだった。工事費用は30コントの予定が50コントもかかったという。当時、そんな開拓地でプールを持っている日本人は極めて珍しかった。
 岡本はその「日本人プール」で水泳を始めた。ニッケイ新聞04年8月14日付で岡本は、「タイル張りのプールなど田舎にはなく、小川をせき止めて造ったもので、カエルがよく泳いでいた。泳ぎ出すとすぐに濁ってしまい、目を開けても水中ではなにも見えなかった」と最初の頃のことを語っている。
 同じ頃にヤーラ倶楽部(YaraClube)ができ、以後はそこで練習を重ねるようになった。
 1937年から本格化したゼッツリオ・バルガス独裁政権のよるナショナリスム政策により、38年には10歳以下の児童への外国語教育の禁止、同年末には日・独・伊の外国語学校が全て閉鎖させられ、41年7月には全邦字紙が強制廃刊となった。岡本が10歳前後を過ごした戦争期は、日本移民にとって受難の時代だった。(つづく、深沢正雪記者)

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