ホーム | 日系社会ニュース | 追悼文 高山先生=写真を学んだ恩師の思い出=サンパウロ市 安中攻(あんなか・おさむ)

追悼文 高山先生=写真を学んだ恩師の思い出=サンパウロ市 安中攻(あんなか・おさむ)

 私の恩師・高山晴郎(せいろう)さんの訃報(註=老衰のため17日「憩の園」で逝去。享年98)に接し、もう一昔前となった頃の想い出をたどってペンをとりました。
 先生と初めてお逢いしたのは、私が田舎から出聖して数ヵ月後でした。田舎で少しの間、写真の店を開業していたのですが、サンパウロ市へ来てまだ自分の仕事先を探せないでいた時、ふと立ち寄った高山写真館の中に飾られていた蜂矢翁(戦前の蜂矢商会の創立者)一枚の白黒の写真の前で、すっかり時間を忘れて見入っていました。
 日本庭園の中に着物姿で反逆光線で、それまで見たことのないコントラストの効いた素晴らしいものでした。
 先生はその日不在で、翌日おじゃま致しましたら、先生は当時ロンドリーナ市で写真屋をやっていた私の叔父の事を良く知っていて、先生の下で修行させていただく事になりました。
 当時5名の従業員がおりまして、週末は結婚式が5、6組も入り、支店の方から応援を頼んだりするほど。私の場合、先生の所に約10年お世話になりましたが、日本からの進出企業の最盛期で、毎週末は進出企業のカクテルパーティが有名なホテルのホールやビュッフェなど、真夜中までレポルタージェンの仕事がありました。
 1973年から、当時首相だった田中角栄が来伯された頃は、私はいつも先生の助手としてどこも一緒でした。
 今でもパウリスタを通ると当時の頃が思い出されます。トップセンター丸紅ビルの落成式、昔の協栄保険ビル、住友銀行ビル、当時東京銀行のあったパンプローナ街との角の朝日開発が建てたビルで、同時にベンジャミン・コンスタンテ街にも大きなビルを建て、落成式前にビル全景を撮影することになり、先生と二人で出かけたのですが、高い建物でどうしても色々な障害物がありました。
 建物全体を撮るには、どうしても広角レンズを使用しなければならないのですが、そうすると、ビルの上の部分が細くなってしまう。色々考えた末、アオリという装置の付いた写真機で撮影したのを懐かしく思い出します。
 先生は、一枚の写真にも納得のいくものを求め、日々研究されていました。あの時代の写真機は感度、露出、シャッター速度など全部自分で調節しなければならないので、自分で撮ったフィルムを現像後一枚一枚、先生は拡大メガネで調べ、それらが適合しているか、ピンボケでないかを調べました。それらが全部美しい写真が出来る条件でした。
 当時露出計もありましたが、そういった物に頼っていては自分の追及しているものは出来ないと、あくまで自分の頭の中にたたき込む写真に対しての厳しさ、又、情熱には頭が下がりました。
 文協にも、何十回、おそらく何百回と足を運びました。文協会長も、延満(のべみつ)さん、尾身(おみ)さん、中沢さん、相場さんと変わり、文協の表玄関の階段で何十組の集合写真を撮った事でしょう。
 生け花展の撮影など、影が出ない様に自然光線でガラスの上に花器を置いて工夫したのも今はなつかしく想い出として残っています。生け花合同展など250名の生徒の方々の作品を撮ったと思います。新宮先生はじめ阿部先生、原沢先生、藤原先生、田所先生、滝沢先生。
 私の記憶も薄くなり、あれから約40年の月日が流れました。南米銀行の撮影もアルジャーのシャーカラで社員の表彰式があり、一番華やかしい時代でした。
 宮坂さんの後、相場(あいば)さん、橘さん、吉田さん(2人)、武藤さん、坂口さん、和田さん、宮本さん、笹谷さんら、皆コロニアを代表する方々でした。
 日本移民70年祭の時は、当時も皇太子殿下が文協階上の日本移民史料館をご訪問に。先生は、その直後パカエンブー競技場の70周年式典の撮影があり、急いでも間に合わない事から、史料館落成式の撮影を総領事館の方へ私のドクメントを提出して推薦してくれました。
 当時日本では赤軍が事件を起こした頃で、日本から沢山の報道関係者が来伯してまして、史料館の場所が狭いので、カメラマン一人の入場が許され、先生のお陰で、幸運にも皇太子殿下と当時のブラジル大統領ガイゼル、パウロ・エジージョサンパウロ知事、文協会長の中沢さん、史料館館長の斉藤さんを撮影しました。
 その後、文協地下のガレージの一角に特設暗室を作り、そこで写真を作って日本からの新聞関係者の方々にも写真を配りました。
 先生はいつも「一瞬を逃すな、その一瞬を逃すと永遠にそのチャンスはない」と教えられました。
 日本舞踊の撮影も、踊っている人の目の位置と手の指先がピンと伸びた瞬間を狙うようにと教わりました。
 スタジオの肖像写真を撮影する場合のスポットの投げ方、光のあて方など、今でも古い新聞や雑誌に、日系政治家の方々のあの頃の写真があり、平田さん、野村さん、アントニオ森本さん日系のみならず、ブラジル陸軍士官学校で当時のジョン・フィゲレート将軍やサンパウロ第二次軍団長アントニオ・ブラガ大将らの撮影も、これらすべて、先生と行動を共にして得た尊いものです。
 先生にパドリーニョになって頂いて、結婚して、今年四十周年をしました。写真機材を車に乗せてフジ・フィルムから依頼されて地方の写真営業者に新製品の説明に旅行した頃が思い浮かんで来ます。
 きっと今頃は、若い頃から乗りまわしていたと話しておられたオートバイで、皆の写真を撮っておられるか・・・拙文ながら追悼文とします。
     合掌

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