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『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ)=(5)

 1939年、欧州で大戦が勃発。後に第二次世界大戦と命名。
 1941年12月、日本が米英に開戦。翌1月末、ブラジル、日本と国交を断絶。
 何の責任もなかったが、在伯日本人に対する迫害が、各地で始まった。

ケブラケブラ、発生!

 1942年9月、アントニーナとパラナグアで、突如、ケブラケブラが発生した。暴徒の群れが、枢軸国人の商店、住宅、農場を襲い、破壊し掠奪し暴行し、家畜を殺した。
 枢軸国人に対するケブラケブラは、この頃、国内各地で起きていた。ドイツ海軍の潜水艦によるブラジル商船の撃沈が引き金になったといわれる。
 が、それ以前から、枢軸国人に対する種々の迫害が続いており、その背後には、米国の工作員が存在した。それについては拙著『百年の水流』改訂版に記した。
 ケブラケブラにも(工作員の扇動があったのではないか)と、推定できるケースが幾つもあった。
 無論、地方の小都市の場合、大都市で起きたそれに刺激され、群集心理で暴発したケースもあったろう。
 暴徒は普通の市民ではなく、ファベイラの住人やタチの悪い連中だった。
 彼らは貧しく、日頃から鬱屈感を抱え、何かあれば、暴れ出したい衝動に駆られていた。
 アントニーナ、パラナグアの場合、香山六郎著『移民四十年史』に簡単な記事が出ている。要点は次の通りである。
 「1942年の9月1
7日、枢軸国人30家族(主に日独人)が、暴徒の襲撃を受けた。陵辱された女子もいた。被害者は散り散りにクリチーバに落ちのびた。執政官マノエル・リーバスは、クリチーバの住人安元青太の急報で、避難民を郊外の農場へ収容した。安元は、さらにサンパウロ市まで行き、スペイン領事館に、被害を報告した」
 これは、内容の一つ一つに、補足説明が要る。
 まず「9月17日」は、正しくは「9月17日以降」であろう。ケブラケブラは、数日続いたからである。
 次に(主に日独人)という部分であるが、当時、各地で起きた迫害は、日独人には激しかったが、イタリア人には比較的、緩やかであった。
 凌辱を受けた女子が何国系であったかは不明。
 「被害者は散り散りにクリチーバに」という部分に関しては、牛窪襄著『パラナ日系60年史』にも、次の様な意味の数行の記述がある。
 「暴動が起こり、襲撃された邦人は雨の中、着の身着のまま避難、野宿をして2日後、クリチーバに着き、同胞のシャカラに身を寄せ、その善意で飢えを凌いだ」
 事実とすれば、海岸山脈を徒歩かそれに近い方法で、越したことになる。
 また「同胞のシャカラに身を寄せた」という部分は『移民四十年史』の「マヌエル・リーバスは避難民を郊外の農場に収容した」と若干異なるが、両方のケースがあったと観てよかろう。
 ただし、これらは被害者の総てではなかろう。
 被害者の中には、ケブラケブラ発生の一週間後に、州政府の指示で、汽車やカミニョンでクリチーバへ退避した者も、かなり居たからである。
 執政官とは、任命制の州首長のことで、知事に当たる。マノエル・リーバスは、1932年、パラナ州の執政官となり、13年間勤め、名声を残した。
 安元青太は、以前、アントニーナでピンガ造りをしていた人物である。
 この時期は、クリチーバに住み、マノエル・リーバスと親しくしていた。
 彼の行動は、自主的なものであったろう。
 スペイン領事館に報告したのは、スペインが中立国で、その在ブラジル公館が日本人の権益代表を務めていたため。サンパウロ領事館には日本人権益部があった。

戻らなかった!

 AYUMIには、ケブラケブラの様子が記されており、被害者の証言も幾つか載っている。
 ある女性の場合。──1924年アントニーナの入植地で生まれた。少女時代、家族は町に移り、商売を営んだ。裏庭で鶏やポルコを飼った。少女は名前をつけ可愛がっていた。
 17歳の時だった、ケブラケブラが起きたのは──。
 父親がやっていたアルマゼンは侵入され、破壊された。数日後、夜、裏庭で物凄い騒音が響き、目が覚めた。暴徒の群れが叫んでいた。「キンタ・コルーナ(スパイ)日本人を殺せ!」
 何もできなかった。
 夜が開け太陽が昇ると、無惨な光景が目に入った。
 荷車は引っくり返され、箱は壊され、ポルコや鶏は引き裂かれ、血が飛び散っていた。
 彼女は、ショックで何が起きたのか理解できなかった。
 生れ育ち生活してきたアントニーナだった。町の建物の一軒一軒、石畳の道の石の一つ一つを知っていた。が、家族と共に去り、戦後も戻ることはなかった。戻りたくもなかった──。
 AYUMIの発行は2011年だから、この女性は取材を受けた時、86歳であったことになる。
 ケブラケブラが発生した時、アントニーナには、約50家族の邦人がいた。
 内、何家族が襲撃されたのか──については、資料を欠く。が、その被害者の一部が直ぐクリチーバへ逃れたのであろう。
 それ以外の被害者も、被害を免れた者も、総て、数日後に州政府からの指示で、クリチーバに退避した。右の女性の家族の場合、その折である。

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