ホーム | 連載 | 2016年 | 『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ) | 『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ)=(7)

『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ)=(7)

シャカラ・カカトゥから海岸山脈を望む

シャカラ・カカトゥから海岸山脈を望む

 既述したが、筆者は2014年、アントニーナを訪れた。この折も、山下亮さんに無理を言って、車で連れて行って貰った。
 途中、海岸山脈を横切った。山峡の高速道路を走っている時、上を見上げると、海抜千数百㍍という山の峰々が、こちらを圧倒していた。
 この山中には別に旧街道があり、昔はそちらを使ったという。1942年9月、雨の中を二日がかりでクリチーバへ逃げた人々は、多分その旧街道を辿ったのだろう。
 車が平地に入ると、町があった。ここがモレッテスだった。山下さんの友人の中谷健郎さん一家が住んでいた。中谷さんも、同行してくれることになった。
 我々はアントニーナに向かった。といっても、誰かを訪ねるつもりは筆者にはなかった。往時、ここに居た邦人は、皆、消えてしまったのだから、訪ねようにも、その相手は居ないのである。彼らが営農していた辺りを見、感じを掴むだけで、よかった。
 もっとも、ただ一人、井藤時雄という人の息子さんが、戦後、クリチーバから故郷のアントニーナに戻り、1982年頃も営農して居た──という記述も資料類にある。
 が、それから30数年が経っている。今も、そうであるとは考え難い。
 ところが、途中で住民に道を訊くと、「ジャポネースのファミリアが、この少し先に住んでいる」と教えてくれた。そこへ行ってみた。

ホッとした…

 一軒の家があり、その周囲に、植木が多くきれいな庭が、広がっていた。
 家の中から日系の婦人が出てきた。こういう処に住んでいるからには、ポ語でないと、話は通じまい‥‥と思ったが、婦人が流暢な日本語で、ハキハキ話し始めた。
 もしやと思い、井藤時雄の息子さんのことを話すと、「井藤時雄は、私の御爺ちゃんです」と言う。
 これには驚いた。
 婦人は菊地節子マルシアさんといい、日本へ県費留学生として行き、ブラジルから出稼ぎ中の人々の世話をした事もあるという。
 ご主人と、ここで各種
イベント、保養、釣り用の「シャカラ・コロニア・カカトゥ」を営業している由。気がつくと、庭の奥にホテルがあった。
 1942年9月まで、この辺りで、日本人が営農していたという。庭には、初期の入植者の名を記した碑が幾つもあった。
 シャカラの傍に小川が流れていた。これがカカ
トゥ川だった。岸に小舟が引き上げてあった。これで、町へ数十分で行けるという。無論、モーターを使って、であろう。
 年に一度、アントニーナに縁のある人々を、招いてフェスタをしており、200~300人は集るともいう。
 筆者は、ホッとした。
 1942年9月の悲劇に対する怒りが、和らいだのである。嬉しくなって、ホテルの上の階に上ってみた。海岸山脈を望む眺めが、美しく見えた。
 それから2年後の2016年7月、電話をしてみた。節子さんは「来年、入植100年祭をします」と弾んだ口調だった。
 入植は1916年だから、一年ずれるわけだが、全く気にしていない様子。
 「皆、張り切って準備しています」と嬉しそうであった。
 皆、という言葉に不審を感じて訊き直すと、アントニーナの町には、戦時中ケブラケブラで逃げたファミリアが、数家族戻って暮らして居るという。今は孫の代になっているが‥‥と意外な話だった。
 数年前、聞いた話と、少し違っていた。井藤さん以外にも、数家族、戻っていたのだ。しかも100年祭を催して、往事を偲ぼうとしている。
 筆者は、またホッとした。

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