ホーム | 連載 | 2016年 | 『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ) | 『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ)=(3)

『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ)=(3)

 マレッタで仲間の4人が去った後、残りの長谷
川武と堀部栄吉は、少し北のカショエイラ川の近くに移動した。そこは地主によると「マレッタの心配はない」ということであった。
 しかし二人だけでは、どうにもならない。伝手を頼って、新しい入植者を探した。やがて安元茂吉・青太兄弟、原甚五郎・美作兄弟が入植した。
 さらに何人かが続いた。殆どが家族連れであった。が、やはりマレッタに、皆、罹病してしまった。
 熱と戦いながら、森の木を伐って薪にし、小舟に積んで川を4時間かけて町まで下った。マタラーゾの製粉工場に運び、燃料として買って貰った。
 それで、なんとか食いつないだ。マレッタを防ぐ工夫もした。
 1918年、長谷川は、やはりこの地域にあったサンタ・オリンピアというファゼンダの支配人に招かれた。農場主は日本人を入れようとしており、その仕事を長谷川に任せた。長谷川は、種々手を尽くし、これに応えた。
 その様にして、邦人の数は徐々に増えて行った。自然、小さなコロニアが生まれた。彼らは籾、豆、玉蜀黍を栽培、豚や馬を飼育した。
 アントニーナの町に出た者もいた。そこで小さな商いをし、空き地で野菜を育てた。
 農業を続けていた人々は、1920年頃から、カナを植えピンガを造り始めた。これが幸い軌道に乗った。安本・原両家が中心であった。


ペルー下りも…

 1932年頃、アントニーナの邦人は約30家族になっていた。
 その中には、なんと、ペルー下りが二人居た。
 ペルーには、日本から多数の移民が渡っていたが、就労先の農場から逃亡者が続出していた。過酷な労働と待遇の悪さに堪えかねて‥‥のことである。
 彼らの一部はアンデスを越え、アマゾンの水路を下って、ブラジル入りした。こうなると、逃亡そのものがドラマであった。「ペルー下り」と通称された。
 二人の名は鎌田正作、東光太郎で、1919年にアントニーナに来た。
 アチコチで働きながら、何年もかけ転々とする内、偶々ここに流れ着いたようだ。何れも家族を持ち、鎌田は野菜を育て、東はピンガをつくっていた。


漁業組合を起業

 やはり1932年頃、アントニーナの西のモレッテス、東のパラナグアにも、合わせて10数家族の邦人が居た。モレッテスの場合はアントニーナへの入植者が、新しい土地を求めて移り住んだ。
 パラナグアにも、そういう邦人が居たが、ほかに外部から直接入ったケ―スがあった。ここに、初めて日本人が現れたのは1916年というから、かなり古い。長谷川たちのアントニーナ入りと同年である。永山吉左衛門、田中定之助の二人で、笠戸丸移民、鹿児島県人であった。
 アルゼンチンに行く途中であったという。サントスから船で南下中、何かの都合で下船したのであろう。
 永山は土地の非日系の女性と結婚したが、妻子を残して病死した。田中は、アルゼンチンへ向かった。
 1931年、清水安次郎と今給黎(イマクレ)矢市が、ここで漁業組合を起こした。清水は1912年の渡航で愛媛県人、今給黎は笠戸丸移民、鹿児島県人であった。二人はサントスで漁師をしていたというから、パラナグア湾の魚に目をつけて来たのであろう。
 二人が創った組合は「組合員36名、従業員120名」と一資料にある。殆どが非日系であった筈である。
 製氷工場や冷蔵庫を備え、日々3~4㌧の魚をクリチーバとサンパウロの市場に出荷していた。
 当時としては、大変な起業であった。

image_print