ホーム | 文芸 | 連載小説 | 道のない道=村上尚子 | 道のない道=村上尚子=(36)

道のない道=村上尚子=(36)

 あのピーマンくらいで、台所の苦しさが変わるはずもなく、家の中は何か陰湿な空気が漂う。ある日、信が重大報告のような構えで、
「今日は、ママイ(お母ちゃん)の誕生日だ!」という。
 私は、ママイと呼ばれたことはない。であれば、生みの親のことである。
 おまけに一郎までが、畑から帰って来て、心なしか肩を落としている。
「すまんな、今日は三加の誕生日で……」と言って、室の中へ消えた。
「なんだ? この家は?」
 三加という女が、その辺に立ちはだかっている気がした。
 
 それから数日後、日が暮れて、私は仕事から帰ってきた。風呂場のある、裏に回ってくると、その暗い場所で、風呂の焚口の薪が勢いよく燃え上がっていると思った瞬間! ドラム缶の中から、ひろ子が立ち上がった。
 見ると、真っ赤というより、それを通り越して少し黒ずんでいる。同時に倒れそうになったひろ子に、飛びかかって抱き取った。子供は、私の腕の中で崩れた。信は行ってしまった。(病院が)頭をかすめたが、すぐに諦めた。
「どうした?」
「にいやんが(風呂から)出たら叩くいうた……」
 か細い声でやっと答えた。信は、ドラム缶の下から火を燃やし、温度を上げていたのだ。恐ろしい…… その事件の醒めないうちに、今度は信が、入口の壁と戸の間に、ひろ子を挟んで押し潰そうとしている。泣いたり声を出したりしたら、もっとやられるらしく、私が見つけた時も、声を出さずに、ただ顔が涙で洗ったように濡れていた。
 とうとう一郎に訴えた。すると彼は、
「にいやんは、そんなことをする子やない」
 と歯牙にもかけない。結婚以来始めて深刻になってしまった。

 そんな日も過ぎたある日、住田さんがフェジョンを一俵担いで来た。この男は、まだ四十代か、背のスラリとした、無口な人である。いかにも真面目な顔付きである。我が家がどんなに苦しい暮しをしているか、出荷物の取引で、分かりすぎるほど分かっているのだ。その彼が、フェジョンを黙って持って来て、黙って帰って行った。
 私はこのフェジョンを見たとたん! ひらめいた。まんじゅうを作って町に売りに行こう…早速、住田のおばさんに、まんじゅう作りを習いに行った。
「まんじゅうを膨らす粉は、ブラジル語で何といいますか」
「それはね、○○○と言うのよ」
「どこに売っています?」
「薬局に行けば、あるよ」
 後は行動するだけだ。一郎にわけを言って、メリケン粉と砂糖代を出してもらった。まんじゅうは、とても上手に出来たと思う。それを持って町へ売りに出かけた。私たちの唯一の財産である、トラットール(トラクター)にまんじゅうの箱を積んだ。そしてその後にしっかりと私は掴まった。運転は信がした。
「男の子は、こんな時頼りになるなあ。早いもので、もうトラットールの運転が出来るなんて……」
 と、月日の移り変わりの速さを、揺られながら思っていた。運転している信の背中を見ながら、彼に少し身内を感じた。

image_print

こちらの記事もどうぞ

  • 道のない道=村上尚子=(81)2017年2月10日 道のない道=村上尚子=(81)  やがて、二人で外へ買い物に出た。道を歩きながら、ひろ子がしみじみとした声で、自分へとも私へともつかず言っている。 「不思議ねえ……今なぜか昔ママイに色々してもらったことを、思い出しているよ。今まで何も思い出したことがなかったのに。例えば、六歳くらいの頃かしら、ママイが私に服 […]
  • 道のない道=村上尚子=(2)2017年2月7日 道のない道=村上尚子=(2)  又、女性の中には、精神的に参っている人が多く、私に馴染んでくると、身の上話をしたい女性が増えた。しかし、治療中に喋られると、私が集中出来なくて大変困る。適当に聞いとけばよかろうと思うだろうが、話している方は、布団を叩いて泣きながら話しているのだ。  これほど、のたうち回って […]
  • 道のない道=村上尚子=(79)2017年2月8日 道のない道=村上尚子=(79)  初めは、彼にも私のポルトガル語が分からなかったのだと思える。しかし、段々私式のポルトガル語が理解出来るようになったのであろう。人間、どんな難しい問題でも、訓練と慣れとで、解決して行くものである。このへんな才能を持った生徒が、私が一言喋るその度に、ポルトガル語で皆に通訳している […]
  • 道のない道=村上尚子=(75)2017年2月2日 道のない道=村上尚子=(75)  私はそのとき、何か一瞬にして肩から覆い被さったものが取れた。父は、空の便器を引き寄せ、その中へ手を入れては、何かをつまみ出して、口に入れている……父の頭では、何か食べ物が入っているらしい。これを見て、私はいいことを思いついた。 「お父さん! ぼたもちばい!」  と、さも牡 […]
  • 道のない道=村上尚子=(36)2017年2月3日 道のない道=村上尚子=(36)  そうこうする内、人に貸していたアパートが空いたので、そこへ移った。色々、身辺の整理も終わった頃、数冊の私の日記帳が出て来た。特に、ここ一年間の日記は、癌病の父の介護、その闘いの日々であった。分刻みの看病のことが、克明に書かれていて、何か見ているとその日記帳そのものが、生きもの […]