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収容日系人らの品、公開へ=米シアトルの日本町ホテル

 【シアトル共同=伊藤光一】米西部シアトルにある旧日本人街のシンボル「パナマホテル」が、第2次大戦中に米国で強制収容された日本人や日系人が残した家財道具などの品々を年内にも一般公開する。オーナーの米国人ジャン・ジョンソン氏は「埋もれた(日系人の)歴史を知る機会になれば」と話している。
 パナマホテルは長崎県出身の建築家小笹三郎氏が設計。1910年に開業し、地階の銭湯「橋立湯」は日系住民の社交場としてにぎわった。周辺には日本語の看板の商店や劇場、写真館が立ち並び、ニホンマチ(日本町)と呼ばれた。
 日米開戦後の42年、米政府は日本にルーツがある人々が母国に協力する恐れがあるとして全米10カ所以上の遠隔地に隔離。許可された所持品はトランク2個分だけだった。当時のホテル経営者堀隆氏は日本町の住民が残した所持品をホテルに預かり固く施錠、本人も収容所に送られた。
 現オーナーのジョンソン氏は、80年代にパナマホテルが売却されると知り、取り壊されて再開発されることを懸念。思い切って購入したところ、地下で家族写真や食器、子どもの漢字練習帳など大量の品々を発見した。
 日本町は住民の隔離中に家屋が勝手に売買されて戦後も戻れなかった人が多く、品々の引き取り手はないままだ。飲みかけの一升瓶や履き古した革靴などごみ同然の物も多いが、ジョンソン氏は「本人や子孫に返還できるよう、保管する約束を守る」と話す。
 ベストセラー小説「あの日、パナマホテルで」の著者ジェイミー・フォード氏は「日本町を訪れ戦前の品々を見ることは、アンネ・フランクの家でアンネの日記を見るのと同じ」と意義を話す。
 パナマホテルは創業時のままの内装や調度品で営業。ジョンソン氏は「窓からの光も、遠来の宿泊客のひとときの眠りも当時と変わらない。1世紀前の息吹を今も感じられる」と話している。

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