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道のない道=村上尚子=(74)

 彼の体全体から、万感の思いがいっぱいに広がっているのが、私にも伝わる……父は、二個目を口に持って行った。少しすると、急にむせ始めて、トイレに行き、「ゲェー、ゲェー」と言い出したのだ! 私は父の背を「とん、とん」と軽く叩いたが、うまく行かない。父の首が倍に膨らんでいる。水を飲んでみたためだ! 水も食物も、喉に止まったままだ! 私は仰天してしまった。呼吸が出来ていないのが分かる。父は苦しまぎれに更に水を飲んだ!
「ああ、だめだ!」
 と思ったと同時にであった! 水が食べ物と一緒に喉を通したらしい。みるみる父の首が細くなった……彼の喉は手術の際、殆ど塞いであったのだ。ポルトガル語の判らない私には、医師から何の説明も受けていなかった。
 この私の大失敗を、父は咎めなかった。あの難しい父が何一つ……父は以後、死ぬまで口から食べられなくなった。

 その内、入退院を頻繁にくり返すようになり、だんだん病院に居る方が多くなった。病院のベッドに寝かされた父は、一日中テレビか私しか眺めるものがなくなった。父は目と鼻の先である。そんな彼の前で、私ひとりが食事をするのは、あまりにも酷だ。注文すれば、この病院内の食堂から、付き添い人には病室まで、食事を運んでくれる。その注文が私には出来ない……その内、看護婦たちの間で、私が毎日何も食べていないということが、評判になったらしい。ある日、看護婦長が、そっと私のところへソブレメーザ(デザート)を持ってきた。
「ソブレメーザが残ったので……」
 と云って、何気ない振りをして、置いて行くようになったのだ。私は助かった……その彼女の気持ちへ手を合わせた。こんな小さな品なら、父の目を避けて食べられるので、ありがたい。食事のせいで、私の体は弱り、疲れやすくなってきた。弟妹たちに協力を求めて、交代してもらうことは出来る。それを嫌がる者は一人もいない。といって、妹の商売の店を閉めさせてまで来させるのは、彼女等の損失が大き過ぎる。その損失の大きさに比べれば、私が我慢すれば全て済むことである。
 会社勤めの弟も又、それ以上に大変である。私だけが、体が空いているのだから…… 父は、あることを私に訴え始めた。痰が絡んで、呼吸が出来ないと言う。すぐに看護婦を呼ぶと、何か細長い吸入器を持ってきて、父の痰を取ってくれた。次から私が一人でし続けた。数日後、今度は父が喉が痛いと訴えた。医師が言うには、
「喉が痛いのは知っている。これの痛みを取ることも出来る。しかし痰のからむ感覚がなくなったら危ない」
 と説明した。父は納得したが、どうやら痛みは相当ひどくなってきたらしい……
「癌ってこんなに苦しまなければならないのか……」

    狂 っ た 父

 父がえらい、見たこともない、のどかな顔をしている。あの痩せていた父は、むくみで太っていた。その彼がベッドから落ちたのだ。ケロリとした子供のような瞳をしている。どうも様子がおかしい。
「あまりの痛みで、頭が狂ったのだ。良かった……」
 と医師が言った。

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