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道のない道=村上尚子=(36)

 そうこうする内、人に貸していたアパートが空いたので、そこへ移った。色々、身辺の整理も終わった頃、数冊の私の日記帳が出て来た。特に、ここ一年間の日記は、癌病の父の介護、その闘いの日々であった。分刻みの看病のことが、克明に書かれていて、何か見ているとその日記帳そのものが、生きもののように喘いで迫ってくるようだ。
 私は思った。後にこの日記帳を弟妹たちが開いたら、妙な罪悪感のようなものを持つのではないか。何も人に見せるための記録ではない。ただの記録として大切な部分もあるが、思い切って捨てよう! このアパートは、ごみ捨て用の投げ入れ口が、各階についている。その九階の投げ込み口から、全ての日記帳を落とした。
 しばらくして「ズドーン!」と大きな音がした。何かを洗い流したような、良い響きだ!
 結局、私が七年間、最後まで父と暮らしたことが、この音と共に終わった。

    マッサージ業

 これから、どうやって生きて行こうか……マッサージ業をやろうと決めた。私は、結構器用なところがある。家庭でのマッサージの時は、いつも父母が私を指名していた。父は私に激しく我がままを言っては、色々と注文をつけた。
「そんな力のいれようなら、もう揉まんでもいい!」とか、
「ひとつも急所にいっとらん!」
 などと、私がどんなに疲れていても、容赦なしであった。
「あんな父以上の、ひどい客はこの世にはいないだろう。出来ないはずはない!」
 現実的な自信でスタートした。こんな時、ある知り合いの青年Fさんが、私に言った。
「貴女は人のために、マッサージをするのですか、それとも食べるために?」
「食べるため!」
「あっ、そんなら止めたほうがいい。それは続かない?」
 今の私は「人のため」とか考えるゆとりはない。
「食べるため!」と張り切った。このとき私は五十四歳、いきなりこの道に入った。
 大通りに面したこのアパートは、メトロの駅から五分の所、初めての客でも迷わないで来られる。この住まいを、仕事場に出来るのは、私にとって大きな武器である。アパートはキチネッチといって、一室とトイレのみの、マッチ箱のようなものである。しかし、私がここに住みながらの仕事ということになると、自分の家であって、自分の家ではなくなる。ちょっと疲れていれば、少々散らかっていても、寝ころぶことが出来るのが我が家だ。
 室は、いつ客が来てもいいように、常に片付いていなければならない。不要な品物は、惜しまず捨てた。ごたごたしていると、客も私もマッサージに集中できないので、狭いながらスッキリさせたい。後に、つくづく分かったことは、不精な私でも、訓練すれば出来るということだ。
 ベッドはふかふかにしないで、広めにして板製のものを大工に頼んだ。その上に、綿の入った布団を敷いた(これは後に、心地よいと客に受けた)。普通、マッサージ師は、シーツの代わりに紙を使った。紙は便利だが、まるで手術台に上がったようである。客の気分を落ち着かせるために、白い布にした。そのシーツは一度でも使ったら、必ず水に通すので、この狭い部屋が夜は洗濯物で賑わう。アイロンを当て、パリパリしたものを使い、窓は開け放して風を通した。

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