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『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(5)

泥沼に足を…

 筆者は、桂植民跡からレジストロへ引き返した翌日、市街地のセントロの近くにある公園に出かけた。東側にリベイラ河が流れており、公園には青柳郁太郎の胸像を浮彫りにした記念碑が立っていた。彼は100年前の1913年、桂に関わる以前に、ここに来ていた。家らしい家は、まだ数軒しかなかったという。
 その時点では、この「場所」の名が「レジストロ」であった。西方に州有地があり、その払下げを受けた。例の悶着がおきた1万6、000㌶である。
 青柳は、桂の創立の翌1914年、早くも、この入手地の植民地化に着手した。悶着を解決しながら、それを進めようとしたのである。レジストロ植民地と命名した。(右の「場所」「植民地」およびその周辺が1945年、イグアッペから分離独立して、ムニシピオ・レジストロとなる)
 しかし青柳は明らかに、厄介極まる二兎を追っていた。
 桂は立地条件が悪く、レジストロには地権問題が絡みついていた。
 その両方で植民地造りをしたため、予定外の資金が流出し始めた。桂には無論、相応の投資が必要だった。レジストロの地権問題は、州政府に掛け合っても──この国の常で──ラチがあかず、裁判所に頼れば、気が遠くなるほどの時間がかかりそうであった。
 結局、その土地の内、どうしても欲しい部分は「私有地」の主張者からは買い取り、先住者には立退き料を払う以外なかった。
 他にも種々の事情があって──東京本社から送金されてきた──資本金の第一回払込み分を、短期間で使ってしまった。ために第二回払込みと送金を本社に求めた。
 しかし株主が渋った。かなり揉めた後、本社の専務が遠路、態々出張してきて、実情調査をする──ということになった。時間だけがダラダラと流れていた。
 この成行きに、青柳は会社の内外から、辛辣な批判を受けることになる。
 結果論になるが、州政府から払下げを受けた1万6、000ヘクタールは、計画を中止、返却すべきであった。ジポブーラの1、400hr区タールにも手を出すべきではなかった。しかし何れに於いても、前へ進んでしまった。
 1915年、漸く第二回払込みと送金が実現した。植民地では、宿泊所、会社事務所、診療所を仮設、入植者用のロッテを用意‥‥と、準備を進めた。
 1916年、東京本社は入植者を募集した。ところが、豈図らんや、応募者は、たった4家族だった──。
 青柳は泥沼に足を取られ続けていた。堪えがたいほど憂鬱な日々であったという。
 1917年、日本では、既存の移民会社が合併して、海外興業㈱、通称海興が発足した。ブラジル拓殖も2年後に合流、桂、レジストロの両植民地は、その傘下に移された。
 この海興によって、応募者が増えた。しかし、渡航してきた彼らは愕然とした。
 1919(大8)年に入植したある婦人が、その時の驚きを、後年、小著に記している。それによると、海興の入植者募集のパンフレットは、レジストロ植民地のことを「世界の楽土」と宣伝していた。
 ところが、長い船旅を終えてサントスに着いてみると、現地への汽車は一日一便で、しかも途中、船に乗り換えさせられた。両岸は、原始林の繁る山また山であった。夢から覚めた心地だったという。
 その上、やっと着いた植民地では、草の家で雨露を防ぎ、夜はランプさえ奢侈という生活であった──。
 草の家とは、例えば葦で屋根を葺いた‥‥という意味だろう。
 行間から、忌々しさが臭ってくるようだ。それは、他の入植者にも共通した感情であった。
(サントスから乗った汽車というのは、ジュキア線のことである。本稿⑮参照)
 青柳は、右の合流には反対だったが、最後は折れて引き続き現地担当の役員をつとめた。その後、北隣りのセッテ・バーラスに新植民地をつくったが、1924年、日本へ帰国、退社してしまっている。投げ出した感じだ。
 これはマズかった。それまで自分が呼び寄せた入植者をほったらかしにした形になってしまったのである。彼は以前、入植者に、この地に骨を埋める覚悟を説き「自分も、そうする」と明言していた。
 ずっと後年、こういう青柳の名を記したり胸像を浮彫りにした記念碑を建てた人々がいる。往時の実情を知らず、単に創業者として素朴に尊重、そうしたのであろう。
 レジストロ植民地の入植者は、1919年までに400家族を数え、その後も続いていた。が、1933年には在住者352家族‥‥というヘンな数字になっていた。
 転出する者が多く、こうなったのである。動機は色々あったであろうが、要するに、この植民地に失望したのだ。無論、海興の誇大宣伝に対する忌々しさが根底にあったろう。
 一方、残留者は生産面で米、ピンガ、カフェー、みかん、野菜、バナナ、藺草、豚、繭‥‥と試み続けた。河でマンジューバの漁をした者も居た。が、一時的にはともかく、長期的に植民地を維持・発展させる産業にはなり得なかった。

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