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「私はパウ・ブラジルを植えよう」=スザノ大浦文雄邸の森を訪ねる=サンパウロ市ヴィラ・カロン在住 毛利律子

大浦邸の巨木

大浦邸の巨木

 ニッケイ新聞5月19日号に掲載された「パウ・ブラジル商人」についての拙文を読まれた読者から、「私はパウ・ブラジルを植えています。ぜひ見に来てください」という驚きのお誘いを頂いた。
 その人物は、スザノ・福博村造り、青年会、アルモニア学園設立とスザノの文化発展の歴史を支え、その生き証人である大浦文雄さんであった。
 お電話の声は、とても93歳の方とは思えないほど若々しく張りがあり、しかも澱みなく、パウ・ブラジルについて語られた。その魅力的な語り口に駆り立てられ、6月3日、スザノの大浦邸を訪ねた。
 街路からエストラーダ・オウラに入り、緩やかな勾配を道なりに進む。小道に沿った森の入り口には、アンダー・アスー(anda assu/Cutieira-Acu)の大木が立つ。大きく両手を広げて誘うように立っているこの木の姿に訪問者は、先ず圧倒されるであろう。
 この木の名はトゥピグアラニー語である。8センチほどのクルミのような実は「油と甘味の強い貴重な果物」という意味を持つ。ミルク状の果汁に含まれる37%の濃厚な黄色の油分は、古くから下剤などの民間薬として用いられていた。楕円形の葉から、可憐な小さな白い花がこぼれ咲く。大木に成長するため街路には適せず、牧草地や平原で多く見られるという。
 緩やかな坂を上がると、小高い丘に大浦邸は慎ましく建っていた。玄関先を飾るブーゲンビリアが赤い花をつけていた。
 屋敷の周りを囲む森の中は意外に明るく、足元の土は乾燥していた。木立の間からは、手前に白く光る湖の水面の向こうに、スザノの町の一部が広く遠く見晴らせる。
 粛然として立つ、パウミット、パイネイラ、ゴム、パウメイラス・インペリアウ、そしてパウ・ブラジルの大木の間をゆっくりと散策しながら、木々を見上げる。
 後に、その森は、文雄さんの人生観、両親への孝養と感謝と、未来を託す子供たちへの希望を込めた森造りに縁るものであることが分かった。

▼両親への孝養と子供・孫への希望の森造り

 大浦邸の森にはいくつかの自然石の碑が建っているが、その一つは、母屋玄関の前に建つ父親・要さんへの石碑である。1985年建立のその碑を、文雄さんは「大浦家のヘソ」と呼ぶ。
 「夏来れば夏服軽く身につけて潔癖なりしその生きの日々」と、文雄さんは父親の人と為りや、両親への孝養の思いを込めて歌い、そこを大浦家の原点としたのである。
 日本語で書かれた石碑の横には、同じ歌がポルトガル語に翻訳されて並んでいる。
 文雄さんには忘れられない「人生で一番うれしかった思い出」があるという。借地農であった大浦家の生活が貧しかった頃、父親は8歳になった文雄さんに革のかばんを買ってくれた。嬉しくて、嬉しくて、毎晩、そのかばんを抱いて寝たという。
 森の中には、文雄さんの夫人・千代子さん(87歳)の母の句碑、「ブラジルは 子等のふるさと サビア鳴く とみ」がある。そしてその近くに、幼くして事故死した弟の長男・與志男さん(1959年11月14日寂)を供養する鎮魂碑が建っている。
 文雄さんの、「人生で一番悲しかった思い出」は、この幼子の事故死であったという。あまりに短かかった命を供養するために、文雄さんはこの碑を守るように菩提樹を植えた。
 今、この大きな木陰の下、鎮魂碑は穏やかな日差しを浴びて佇んでいた。人間は誰しもあざなう縄の如き、禍いと幸せの繰り返しの中で日々を生きる。
 しかし、自邸に樹を植えるにとどまらず、亡くなった人を偲んで感謝の石碑、句碑、幼兒の鎮魂碑を建立するということは、すでに並外れた人生である。
 人類は古代から樹木と石を対にして崇拝の対象としてきた。石が「静的な生命のシンボル」であるのに対して、樹木は生と死を循環しながら再生する驚くべき能力を授けられた「動的な生命の象徴」とし、永遠の豊穣の象徴として崇敬してきた。
 それゆえに、世界各地で、それぞれの民族がそれぞれの地に、樹木と石を「世界のヘソ」として存続させている。「大浦家のヘソ」も、個人の域を超えて長く語り継がれるのであろう。
 母屋の横の別棟には、6メートル四方の大きさの書斎がある。本好きの人にあっては、正に憧れの森の中の書斎である。
 多種多様な素材で作られたフクロウの置物や、壁に掛った著名人の色紙などを拝見しながら、しばらく文雄さんの文学談議や生い立ちを伺った。書棚は天井の高さがあり、書斎はあたかも93年の年輪が刻まれているようは重厚な味わいを醸していた。
 青年時代、独学で文学書を読破し、詩を書き綴ってきた文雄さんは市井の文学者であり、詩人といえよう。

▼私はパウ・ブラジルを植えよう

4人のお子さんとお孫さんが植樹したパウ・ブラジルには一本、一本、名札がかけられている

4人のお子さんとお孫さんが植樹したパウ・ブラジルには一本、一本、名札がかけられている

 文雄さんは、1924年、父・要、母・よすえの長男として香川県に生まれた。4歳の時、両親と2歳の弟、そして叔父の構成家族5人で1929年1月に神戸を出発し、3月に着伯した。手元に、文雄さんから戴いた『子供移民・大浦文雄・農村に生きる或る準二世の軌跡 大浦玄編著』(2011年)がある。この一書にはスザノ福博村文化運動の幾星霜を経た奮励の歴史と、両親や家族、子供への深い愛情と尊敬の思いがつぶさに綴られている。
 「なぜパウ・ブラジルを植えようと思ったのですか」。この質問に、文雄さんは次のように答えた。
 「それは子供と孫のための、ふるさと作りをしたかったからです」
 文雄さんには四人の子供がいる。その子供たちは成長すると、それぞれが広いブラジルに散らばっていくであろう。
 けれども、どんなに遠く離れ離れになっていても、この子たちが生まれたところに帰れる場所、故郷を遺してしてやりたい。その場所に木を植えよう。それではどういう木がよいか。そうだ! ブラジルの国名となったパウ・ブラジルにしよう。1961年のことである。
 文雄さんはその苗を求めてサンパウロのインスティツット・フロレスタルを訪ねた。そこで小さな空き缶に植えられた10センチほどの苗木を見つけて、その苗を買いたいと申し出た。しかし、当時は公共施設や公園、学校などに配布するために作っているので個人には売れないと断られた。子供の数の分、4本だけ、どうしても欲しくてとうとう所長に交渉することになった。文雄さんの熱心な申し出を受け入れ、自筆の許可書を書いてくれた。
 そして所長は別れ際に、「樹がうまく育つように。そして子供たちの良い故郷ができるように願います」との言葉を添えてくれたのである。
 「子どもたちは、大学時代までは親の庇護の元、だいたい揃って成長する。それが家庭を持つと岐路に立つ。そこにその子の運命が待っている。そこで与えられたものをプラスに変えて生かしてほしいと、私は切に願うのです」という文雄さんの言葉に、深い感銘を覚えた。
 そして時は流れ、2000年の10月に樹齢40年になった4本のパウ・ブラジルは絢爛として一斉に開花した。満開の花の下で写したご夫妻の写真は新聞紙上ではカラーではないので、黄金色に輝く木の姿が実感できないのは残念である。
 ブラジル発見当初にもこの木は満開の花をつけて黄金色にかがやいていたであろう。最初にペルナンブッコに着岸したヨーロッパ人は、この黄金の花を付けた大樹が林立するのを見たに違いない。きっとこの樹は観る者の心を奪い、畏怖の念を呼び起こさせたであろう。
 パウ・ブラジルの花は、花芯は深紅で花弁は黄金色である。そして枝先からこぼれんばかりに、数十個の花をつけている。木全体に花を付けたパウ・ブラジルの姿は聖樹そのものであり、見るものはその至高の神々しさに打ち震えるであろう。
 しかし、人間の凄まじい貪欲さは、わずか2世紀ほどの間に、東北部(9つの州で構成された)一帯のパウ・ブラジルを根絶やしにしてしまったと伝えられている。

パウ・ブラジルの赤い芯

パウ・ブラジルの赤い芯

 筆者は頂いたパウ・ブラジルの木片の芯が赤いのを、直に目にした。その芯は確かに赤い。文雄さんによると、ねじ回しのような鋭い先で立ち木の中を突き刺すと、血のような赤い樹液が流れ出すという。
 周知のことであるが、国名「ブラジル」の語源はポルトガル語のブラーザ(Brasa:勢いよく燃える炭火のように赤い)の意で木の芯が赤く、心材から採れる紅色色素(ブラジリン)が染料として有用であった。ブラジルボク(ブラジル木、学名Caesalpinia echinata)はマメ科ジャケツイバラ亜科の常緑高木で、別名をペルナンブコ、パウ・ブラジルという名称である。
 ヨーロッパでは古くから、インドのスホウ(学名:Caesalpinia Sappan Linn)という豆科の木の心材から取れる赤い染料が宗教儀式用の衣類や毛織物を染めるために広く用いられていたが、ポルトガル国王はブラジル発見後は、その開発権利を民間の一商人にゆだねてパウ・ブラジル貿易から莫大な富を得た。
 この木は、全草が小さな棘状突起に覆われ、黄金色の花が全体を被いつくすほど満開となるのに半世紀を待たねばならない。パウ・ブラジルに類似した九種の中から本物を識別する条件の一つに「棘のある莢」と、交互に葉をつける特性があるが、その種子が弾け発芽することさえ希少なことといわれる(写真は「棘のある莢」あの標本)。
 文雄さんの植えた木が本物のパウ・ブラジルであることは、インスティツット・フロレスタルが証明している。

▼清澄で幸福な老い

健康の秘訣は毎朝身体を動かすこと。「最近はウォーキングというよりも、散策に変わった」という大浦文雄さん(93歳)と千代子さん(87歳)夫妻

健康の秘訣は毎朝身体を動かすこと。「最近はウォーキングというよりも、散策に変わった」という大浦文雄さん(93歳)と千代子さん(87歳)夫妻

 大浦文雄さんは青年期に常に師を求め、「生涯学習、生涯自己教育」のモットーを貫いてきた。その学ぶ姿勢は現在なお微動だにせず、強い意思をもった方である。
 ご夫妻共に非常に恵まれた健康と、幸福な老いを享受しているが、それは単に天から受けた長寿ということではなく、確固とした積極的な志は実行力を伴っている。
 それが無くては長寿は保てないことを教えられるのである。大浦さんは次のように語る。
 「自分は移民としての成功者とは思っていないが、人生の成功者である。それは今、昔を振り返り、悔いのない生き方をしてきたからである」と。
 現実の老いはそのように幸福ではない。世の中の大半の老人は、病気、精神的衰弱、経済的困窮、孤独に耐えて生きる。故事に「老いは俗世の煩悩を超えた清らかな境地」とあるが、万人がある日必ず迎える老いは、多くの人にとって、望んでいた最期を尽くせないことの方が多いのである。
 樹木という存在は、あらゆる生き物の中で最も長寿である。大浦家の森の木々は、ご夫妻はもとより、子や孫よりも生きながらえるであろう。短い時間であったが、文雄さんの幸福な老いはこの森からのご褒美であろうという感慨を深くした。
 文雄さんの日々は、無心に自宅の森を作るように、福博村のみならず、各所に文化的活動の種を植えることを実践し、寿命の尽きるとき、「子供たちよ、ありがとう。そして、後を頼むよ」と言って幕を下ろしたいと語った。
 この言葉は単に自分の子供に対して発するのではなく、自然に対しても同じ思いである、と述べられた。
 文雄さんは『アルモニア学園』設立25周年記念誌の巻頭に「樹も、人も」と題する次のような詩を発表した。

庭の木も大きくなった。
巣立っていく若者たちも
大きくなった。
ブラジルの大地にしっかと
根を張って
樹よ、もっと太くなれ
人よ、もっと大きくなれ

 この一篇の詩は、なんと象徴的に文雄さんの人となりを物語ることか。
 大浦邸のある森の風景を思い浮かべ、敬仰の思いを深くしている。

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