ホーム | コラム | 特別寄稿 | 特別寄稿=ミクロネシアの日系大統領=建国の父トシオ・ナカヤマ=サンパウロ市在住 酒本恵三

特別寄稿=ミクロネシアの日系大統領=建国の父トシオ・ナカヤマ=サンパウロ市在住 酒本恵三

トシオ・ナカヤマ大統領(Trust Territory of the Pacific Islands (Library of the University of Hawaii) [NB: Palau was a UN trust territory under US administration until 1982. / Public domain)

知られざる日系二世の大統領

 フィリッピンの東、カロリン諸島に属する607の島からなる、「ミクロネシア連邦」。日本統治時代に多くの邦人がこの地に渡り、今でも人口の2割の方々が 「日本人の血を引いている」 と言われています。
 このミクロネシアを、「アメリカの統治から独立させた」初代大統領もまた、トシオ?ナカヤマという日系人でした。ミクロネシア連邦建国の父トシオ?ナカヤマ大統領
        ☆
「ローズマリー・ナカヤマ? それは、“日本人の名前”ではありませんか。」
 1974 (昭和54)年8月、南太平洋に広がる「ミクロネシア連邦」からやって来た、小中学生52人が東京の東宮御所を訪れた際に、引率リーダーの一人、ロ-ズマリーのネームプレートを見て、皇太子殿下(今上陛下)は、そう尋ねられた。
「はい、私はトラック(諸島)出身で、父は日系二世、祖父は神奈川出身の日本人です」とロ-ズマリーは答えた。
「そうですか。お父様はご健在ですか。何をなされておられるのでしょう?」
「はい、父は今、大統領をしております」
「ほう、日系人の大統領ですか。お父様にも是非、お会いしたいものですね」
 子供達を引き連れてきた数人の大人達とも、殿下は日本語で会話をされた。一行の中には、一目で“日本人の血を引いている”と分かる子供達もいた。そんな子供達を見守る殿下の眼差しは、温かく、優しさに溢れていた。
 日系人大統領が次々と登場フィリッピン群島とハワイ諸島に挟まれた広大な海域には、かって「南洋群島」と呼ばれた島々が点在し、現在は、パラオ共和国、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国の三つの共和国、及び、サイパンなど米領北マリアナ諸島となっている。
 この一帯は18世紀にスペインに領有されたが、19世紀にドイツ帝国がスペインから買収。第一次大戦で日本が占領して、1920(大正9)年、ヴェルサイユ条約により、日本の委任治領となった。
 日本統治は第2次大戦末まで続き、日本人の入植が進んで、最盛期には現地人5万人に対して、邦人8万4000人を数えるまでになった。漁業や農業、リン鉱石?ボーキサイト採掘などの産業が発達し、サイパンやパラオでは、邦人の家屋、商店、映画館などが立ち並び、あたかも、「日本の地方都市」のようであったという。

ミクロネシア連邦の位置 (TUBS / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0))

 敗戦と共に、米軍は在留邦人を強制退去させた。だが、日本人と結婚した現地人妻や子供は留まり、現在も日系の子孫は、住民21万人の20%を占めているという。1979年から81年にかけて、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国、パラオ共和国と次々に独立を果たしたが、冒頭のローズマリーの父親、ミクロネシア連邦の“トシオ・ナカヤマ初代大統領”をはじめ、「日系の大統領」が次々と登場した。
 同連邦のィマニュエル・モリ、マーシャル諸島共和国からはアマタ・カブア、ケサィ・ノート、そして、パラオ共和国からはクニオ・ナカムラ、トーマス・レメンゲサウなどである。
 酋長の娘と結婚したトシオ・ナカヤマは、1931 (昭和6)年にトラック諸島の北西離島・ウルル島で生まれた。父・中山正実は横浜市出身、母はウルル島の酋長家系の娘マルガレッタ。六男一女の内の三男だった。
 父・正実がトラック諸島に渡ったのは、1918 (大正7)年、日本軍が南洋群島を占領してからわずか、4年後の事だった。親戚が経営する貿易会社から派遣され、グアム島に赴任する途中だったが、支店のあるトラックに逗留している内に、貿易会社が倒産し、行く先を失って、トラックに住み着いたのだった。
 正実は大正10(1921)年に設立された、南洋興発株式会社に入社する。これは南洋群島での製糖業、水産業、鉱物資源開発を一手に手がける国策会社で、「北の満鉄(満州鉄道)、南の南興」と並び称された。

トラック島の公学校(1930年頃、Unknown author / Public domain)

 正実は来島の翌年、すぐにウルル島酋長の娘マルガレッタと結婚している。ミクロネシアは女系社会で、酋長の継承者は娘の息子となる。したがって、娘の結婚相手に外国人を迎える事に抵抗は少なかった。
 正実のように酋長の娘と結婚した日本人男性は他にもあり、トシオの幼友達であるアイザワ?ススムの父もその一例で、ススムは戦後、実際に酋長を継いでいる。教育を重んずる日本の統括で、南洋群島にも近代的な学校教育が導入された。
 日本人子弟が通う尋常小学校と、現地人のための公学校の二本立てで、父親が日本人の場合は、母親が現地人であっても、日本人として扱われたので、トシオも尋常小学校に通った。

何がなんでも春島に渡り、学校に行くぞ

 しかし、1945 (昭和20)年の日本の敗戦が、14歳のトシオの人生を大きく変えていった。南洋群島は米軍に占領され、在留邦人は、“日本に強制送還”される事になった。妻や子供を日本に連れて帰る事は可能であったが、終戦直後で住宅も焼き尽くされ、食糧も無い日本に帰っても、生活が成り立つはずもなかった。
 多くの在留邦人が泣く泣く、家族をおいて帰国しなければならなかった。父・正実は英語が堪能だったため、米軍に引き揚げ作業を手伝わされた。「何とかトラックに留まりたい」と米軍に在留許可を申請したが許されず、終戦から1年半後、最後の引き揚げ船で帰国させられた。「日本国内が落ち着いたら、必ず帰ってくるから」と言い残した。
 大黒柱を失った一家の家計は一気に苦しくなり、トシオは兄弟と共に、アメリカ人の始めた水産会社の下働きをして、母親を助けた。一家は何とかやりくりして、母の郷里である、ウルル島に戻った。
 トシオは大好きだった父への思いを募らせ、「船乗りになり、日本に行って父を捜したい」と、いつも考えていた。それには英語や数学を学ばなければならないが、離島には学校はなかった。そんな折、耳寄りな話を聞いた。米海軍が諸島統治の拠点を置いた春島で、「学校教育を始める」というのである。
 トシオは「何がなんでも春島に渡り、学校に行くぞ」と決心した。それから間もなく、「離島を巡る巡回船」が来ることになった。“このチャンスを逃してはならない”と母親にだけ打ち明け、自分で育てたブタ一匹を抱えて巡回船に潜り込んだ。
 ブタは春島に住む遠い親戚への下宿代であった。父への思い春島に出来た学校は教室が一つしかなく、しかも満員だった。無登録のトシオの席は無かったが、教室の外から授業を聞く事は許された。
 程なく、何人かの生徒が落ちこぼれて教室に空きが出来、トシオは教室内に席を与えられた。家でも自分で石油ランプを作って一心に勉強を続けた。それからわずか1年で、トシオの英語力、数学力は、アメリカ人教師を驚かせるほどに急伸し、年下の生徒達に「勉強を教える役割」を務めるまでになった。
 勉強熱心で成績抜群のトシオは、その後、正式な中学の教員となり、さらに、22歳には信託統治政府の職員に採用された。仕事は順調だったが、“別れた父への思い”は募る一方だった。トシオの、「父への思い」を知ったアメリカ人将校が、日本にいる正実を見つけ、連絡をつけてくれた。
 しかし、その直後に届いた父からの手紙に、トシオの胸は張り裂けそうになった。「元気でいるが、諸事情があって島には帰れない。家族との再会は諦めた。私の事は忘れてほしい。今の生活を大事に、みなで頑張ってくれ」。

この手で国家建設を目指そう

ミクロネシア連邦の近隣にあるキリバスのオノトア環礁(Edvac / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0))

「どうして? あの戦争さえなければ、父と切り離されずに済んだのに」という気持ちが、トシオに大学進学を決意させた。人々の暮らしは政治や行政に左右される。それならば、本格的に政治学や行政学を学び、島々に“貢献できる仕事がしたい”と考えた。
 トシオは信託統治政府が提供する、「奨学生プログラム」に応募し、なんなく合格してハワイ大学に入学した。ハワイ大学の東西センターには、世界中の途上国から青年達が集まっていた。彼らは自国に誇りを持ち、「国家建設への意欲」に燃えていた。
 しかし、日本人であったはずの自分のパスポートには、「無国籍」と書かれていた。“ミクロネシアは国家でなければならない。この手で国家建設を目指そう”とトシオは心に誓った。自分は大勢の人の前で演説するのは得意ではないので、政治家には向いていない。
 しかし、「アメリカの言いなりではなく、“私たち自身の国を作る”には、自ら政治家にならなければならない」と思った。そのチャンスは意外に早くやってきた。
 1957(昭和32)年、地元民による意思決定機関として、トラック諸島に地区議会が設置され、その翌年には選挙が行われる事になった。トシオは急きょ、ハワイから帰島して、立候補した。圧倒的多数で当選、27歳の若き政治家が誕生した。
 父との再会トシオが30歳となった、1961(昭和36)年、日本に行くチャンスが巡って来た。国連の議会に派遣される事となり、その際に日本への立ち寄りが可能となったのである。
“音信が途絶えた父を捜して一目会いたい”それだけがトシオの願いだった。
 しかも、唯一の手がかりは、父の手紙の差出し区域が「品川」であった事だけだった。事情を知った、ホテルのボーイとタクシーの運転手が、トシオを助けてくれ、一緒に品川一帯の交番を回って、父を捜した。
 2日目の夕方、大井町の交番でお巡りさんが、直轄地域に「大関正実」という人がいるが、その旧制が「中山」だったらしい、と教えてくれた。お巡りさんはトシオを、2階建ての木造アパートに案内してくれた。
 胸が高まり、立ち尽くしていたトシオを、ボーイとタクシー運転手が「行ってこいよ」と、後押ししてくれた。震える手でノックすると、扉が開き、そこに、初老の男が立っていた。「トシオか!?」男はおどろいた様に顔をこわばらせて、やがて、小さな笑みが顔中に広がって行った。「紛れもなく、15年前に別れた俺のオヤジだ」と、トシオは心の中で叫んでいた。
 正実は体を壊し、経済的にも苦しい中で、トラック島への帰還の道も中々、開けなかった。そんな正実を心配した親戚の世話で、かっての知り合いの女性と結婚していたのである。正実は親戚一同と共にトシオを歓迎し、「体調が優れないのを整え、仕事の区切りをつけたらトラックに帰る」との約束をしてくれた。
 正実がトラックに戻ったのは、それから11年後、再婚相手を亡くした翌年の、1971(昭和47)年だった。その後、トシオの子供達、すなわち、孫達に囲まれて、穏やかな余生を送った。

トシオは将来の大統領候補だ

第7代大統領も日系四世のマニー・モリ氏(Secretary Kempthorne and Federated State of Micronesia President Immanuel Mori in Palikir. [Photo Credit: Andy Pernick] )

 父との再会を果たしたトシオは、益々、「国家建設の仕事」に打ち込んでいった。1965(昭和40)年、ミクロネシア全域をカバーする、上下両院からなる議会が設置された。トシオはトラック地域から立候補し、当選。
 その後も当選を繰り返し、3期目からは上院議長に選出された。行政府の長は、アメリカが送り込んだ高等弁務官であったから、上院議長であるトシオが現地側の“最高指導者”であった。「シャイで内気な感じ」という印象を与えるトシオだったが、信念を貫いて“アメリカ側にも主張”していく姿に、「トシオは将来の大統領候補だ」との呼び声が高まっていった。
 1979(昭和54)年、トシオのリーダーシップによりミクロネシア連邦自治政府が発足すると、トシオはそのまま初代大統領に選出された。その後も、トシオはアメリカとの交渉を続け、1986(昭和61)年11月、遂に、独立国家へと移行した。
 大統領になってから、7年半が過ぎていた。翌年、トシオは2期8年の任期を全うして、政界を引退した。30年に及ぶ政治家としての活動で、「国家建設の初志を幹徹した」のである。これまで一生懸命頑張って来て本当に良かった娘のローズマリー?ナカヤマが、皇太子殿下から「お父様にも是非、お会いしたいものですね」とのお言葉を頂いたのが、大統領となった最初の年だった。
 それを聞いたトシオは大変喜び、独立を目指す国家を代表して、陛下にお会いし、その光栄を国民に報告したいと願った。今でも “皇室を尊崇 ”している、ミクロネシアの日系人にとってそれは「最高の喜び」となるだろう。
 ただ未だ「正式な独立国」となっておらず、日本との外交関係も確立していない段階で、公式にお会いする事は出来なかった。だが、殿下御自身のご意向で、私的に「午後のお茶会」に招くという形で、トシオの願いが叶えられた。
 昭和59(1984)年5月15日、トシオは東宮御所において皇太子・同妃両殿下に拝謁した。拝謁後、トシオは興奮気味にこう語った。
「殿下、妃殿下とも、素晴らしく美しい英語を話され、日系人である我々に対する思いやりにも深いものがありました。皇太子殿下、妃殿下にお会いできた事は私達の生涯で最大の栄誉でした。両殿下は、島の人々の暮らしぶりや日系人の事にとてもご関心が高く、いろいろ質問されました。…これまで一生懸命頑張ってきて、本当に良かった」。

image_print