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サンパウロ州を「ブラジルの機関車」にした鉄道=(下)=礎石になった日立のラック式

マイアさん

マイアさん

 パラナピアカーバのガイド、ゼリアさんから聞いた「ここの鉄道システムは一時期、日本の会社のものだった。その最初の頃に事故が起きて、日本人を含めて何人か死んだ」との話を、食事をした現地レストランの会計ペドロ・デ・ソウザ・マイアさん(59)にもぶつけてみた。すると彼は祖父の代から3代続きの鉄道マン一家で、本人も78年からRFFSA(連邦鉄道会社)で働いていた。「あの事故は地元では有名だったが記事にならなかった」と証言し、彼が持つ2冊のS/J線の本を見てくれたが、やはり記述すらなかった。
 この鉄道システムの切り替えでケーブルカー方式からラック式鉄道(歯軌条鉄道)に変更され、マイアさんは「日立が請け負った」と証言した。ラック式は、レールの間に歯型のレールを敷き、車両の下部に設置した歯車とかみ合わせることで急こう配を上り下りさせる。電気モーターで推進力と制動力を生む方式だ。
 マイアさんによれば、最初の試験走行の頃に貨車の重みに耐えきれなくなって暴走し、サントスの平地に降りる緩やかな左カーブで脱線する事故を起こしたらしい。「500トンの貨物を運ぶ試験だったが、実際はもっと重く、それが事故の原因になったと聞いている。この事故以降、牽引車を2台繋ぐことになった」とも。「日本人技師は進行方向に向かって車両の左側にしがみついて助かり、右側にいたブラジル人機関士2人は下敷きになって死んだ。その日本人は今頃どうしているだろうか?」。
 ゼリアさんは「日本人も死んだ」と言ったが、マイアさんは「日本人は死んでない」という。やはり事故の詳細があやふやだ。
 ネット検索すると鉄道研究家トマス・コレアさんの頁に辿りついた。「この事故は1974年3月。日立社員とブラジル人機関士の計2人が死んだ」とある。
 ウィキペディアのS/J鉄道の頁にも事故のことが出ていた。《旧線はラック式に変更された。丸紅が受注し、日立が建設、1974年1月17日に開通式が行われた。(中略)3月に500トンを超える貨物を運ぶ試験で事故が起き、機関士と日本人技師の計2人が死んだ》。

駒形さん

駒形さん

 ただし丸紅が元請だと分かり、当時ブラジル丸紅の現地社員だった駒形秀雄さん(83、新潟県)に尋ねると「それは僕が担当していた案件でした」と教えてくれ驚いた。
 「僕はまだ30代後半で、ポルトゲースも上手でないに欧州の一流企業と競争して1969年に受注できた。登山鉄道改修事業のパッケージ受注は当時では初めて。思い出深いプロジェクトです。日立は碓氷峠の登山電車をやった実績があるから、お願いしたんです。アプト式です」。
 さらに「その事故のことは憶えています。ただその時、僕はもうツバロン製鉄所のプロジェクトに移っており、事故のことは人から聞いた。そのジャポネースというのは日本から来た技師ではなく、連邦鉄道職員の二世アオキという人です。でも彼は死んでいませんよ。たしか同じ車両に乗っていたブラジル人機関士2人は死んでしまった。あの事故以降、ブレーキ設備を補強したと聞いています」とのこと。

駒形さんがもらったラック式開通式の特注記念メダル

駒形さんがもらったラック式開通式の特注記念メダル

 「開通式にはメジシ大統領、マリオ・アンドレアザ運輸大臣も出席したんですよ。当時は軍事政権ですが、カッコ悪いので事故のことはお知らせしなかったとしてもおかしくありませんね」。当事者だけに実に貴重な証言だ。これが一番、真実に近いに違いない。
 ゼリアさんは「3年前にこのシステムがスイスの会社に入れ替わり、日本式部品を鉄道博物館に寄付すると申し出たんですが、なぜか断ったんです。本当にもったいないことでした」と惜しんだ。まったく同感だ。つい最近まで40年近くもこの登山鉄道を支えたのは日立のシステムだった。間違いなく、これもサンパウロ州を「ブラジルの機関車」にした礎石の一部だ。(深)

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