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アマゾン雄飛したかった田中角栄

パウリスタ新聞1981年元旦号

パウリスタ新聞1981年元旦号

 庶民派首相・田中角栄は死んでなお人気が高く、今も彼に関する本が続々と出されている。そんな一冊、5月に発売された『田中角栄 最後のインタビュー』(佐藤修、文春新書)の出だしに引き込まれた。
《私が田中角栄に初めて会ったのは、一九八〇(昭和五十五)年十二月十六日、ブラジル・サンパウロの「南米通信」の東京支局長としてインタビューした時であった。この当時、角栄は七六年二月に明るみに出たロッキード事件の裁判を抱え、マスコミとの接触を一切絶っていた。それでも南米の日系人たちの間では角栄人気は非常に高く、現地の邦字紙からは角栄の近況を是非にと、支局に記事の配信を依頼してきていた》
 「現地の邦字紙」とは弊紙の前身パウリスタ新聞のことだ。1981年元旦号をひっくり返してみると、見開きでデカデカと掲載されおり、非常に興味深い内容だった。なんと角栄は少年時代にアマゾン移住を夢見ていた。
《私はブラジルという国にとても親しみを持っているんです。これは少年時代にアマゾン雄飛を真剣に考えた頃からの感情です。ですからブラジル訪問の時も、あのアマゾンの国に来たんだという気持ちでいっぱいでした。あの時は時間がなくてアマゾンには行けませんでしたが、サンパウロを経てワシントンでの日米首脳会談に向かう途中、大アマゾンを空から跨ぐことができました。私はその時これで一生のうちの一つの夢が実現したんだなぁという思いに浸ったものです》と語っている。
 トメアスー移住地を命がけで支援してきた千葉三郎衆議、その後を継いで面倒を見た岸信介氏らから頻繁にブラジル報告を聞き、相談を受けていたという。
 驚くべきは、次の一言か。
《まあ、私にとってブラジルは、故郷新潟の次に関係の深い土地と言っていいでしょう》。多分に「政治家のサービス」的言葉だろうが、ロッキード事件後にマスコミとの接触を絶っていた中、この取材だけには応じた。移民への深い想い入れを伺わせる。
 来伯中にガイゼル大統領と会談した下りも興味深い。《ガイゼル大統領に会った時、『私はドイツ移民の子だ』というから、私だってアマゾン開拓を志した男だ。しかしあまりにも遠かったので途中の東京で引っかかってしまっただけだ。もしあの時にブラジルに来ていれば今頃あなたの有力な対抗馬になっていたかもしれない、と言い返した。そうしたら彼は『それは認めよう。(中略)私はドイツ移民の子だがブラジル生まれだ。田中、あなたがもし幼少時にブラジル渡って来たとしても、ブラジル生まれではないので大統領にはなれない。はなはだ惜しいことですが…』と言うのです。私はこのガイゼル大統領の言葉にブラジル人の気概というものを感じました》とある。
 軍事政権中のガイゼルとの間にこのような会話があったという事実が面白い。初対面の大統領とこれぐらい踏み込んだやり取りをする外交のセンスは大したもの。それがセラード開発に結実し、日伯関係の基礎を作った。
 ただの曠野(あれの)だと思われていたセラードを、日本と日系組合主導で土地改良し、世界有数の大豆生産地帯に変貌させた。これは、いまもってブラジル政府側から感謝される事例であり、日伯経済交流がもたらした国家的な貢献だ。
 角栄いわく《百六十二万人(当時の海外日系人口)の人々は、明治以来百十五年に亘って日本の国際化のために大変な努力をされてきた方々とその二世・三世であります。とくに前の戦争の時は、敵国扱いを受けて非常に苦労されました。したがってこの一世・二世の方々の苦労に報いることが日本にとってまず大事です》。
 たった一度の来伯だが日系社会をかなり深く理解していた。
 《さらに二世の諸君で親の生まれ育った国で勉強したい人には、全額こちらの負担で受け入れられるようにしようと思います。そのくらいのことは今の日本だったらできることです》とまで言っている。今の政治家に聞かせたい。
 佐藤修記者の取材は20分の予定だったが、結局は40分以上に。その間、応接間ではたくさんの陳情客がじっと待っていたとか。
 残念なのは、南米通信の尾和義三郎社長が昨年11月に亡くなったことだ。存命中にこの大スクープの裏話を聞きたかった。(深)