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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(54)

カーザベルデ地区 瀬名波栄進 宮城真吉 古波蔵実(約200人)
カンポ・リンポ地区 城間政吉(約80名)
ペンヤ地区 喜納盛忠 久手堅勲(約30名)
日の出地区 花城康栄 喜納茂 伊野波盛雄(約60名)
サン・カエターノ 喜納真次(約100名)
サント・アンドレー 島田房良 糸洲三郎 与那覇朝昭(約50名)

 以上、7地区の代表者が語る地域での青年活動は全然なされていない。青年隊が主催する行事に参加するのみが唯一の活動だと云う。そして青年連合会の結成に全く関心がない。

 わが在伯沖縄青年協会だけで、毎年これだけの行事を続けることには限界があるし、この限界を打開するために連合青年会構想を打ち出したのであるが、その望みはないことが判明した。
 これは何れ県人会が必要に応じてやればよいし、ここ当分青年協会はバレーボールと野球に卓球のスポーツ行事を続けるだけでよいことになった。

 

 10 県人会と文化センターの対立を融和・克服するための努力野球やバレーボールの試合を開催するには、少なくとも平坦な運動場が必要である。
 そのため地域の青年グループにその運動場探しを依頼し、彼らと共に大会を開催することができた。ところが、第3回大会以降は、沖縄文化センターの広い運動場を使用して開催するようになった。青年隊にとってかけがえのない場所となった。
 県人会と文化センターの先輩たちにとっては、文化センターの設立及びその所有権をめぐって当初から騒がしい対立問題があって混乱が続いていた。
 1971年7月24日の在伯沖縄協会の臨時総会において、両組織の分離が決定され、ブラジルにおける県系人社会に2つの組織が存在することになってしまっていた。
 2つの組織をめぐる先輩たちのなまぬるい対立的雰囲気が覚めやらぬ中で私たち青年隊は、スポーツ行事や沖縄民謡のど自慢大会などの活動を展開し始めていたのである。
 こうした私たちの活動にとっては、文化センター運動場はかけがえのない必要かつ大切な場所であった。

 そのために私たちは、センター側の要望に応じて様々な協力を惜しまなかったわけである。いわゆる若者達にとって組織活動の拠点は会館以上に運動場が必要だったのだ。
 しかも大きな会館の完成が1973年12月に完成しており、それこそ理想的な活動拠点で価値ある場所だった。

 それにセンター側執行部は何かと青年隊の行事に協力的であり、その施設利用を歓迎し大いに使ってくれとの態度であった。若者たちにとってこの広い運動場は、大変魅力的で行事活動に不可欠な場所となっていたのであった。
 このように青年隊の活動が若い青年層を行楽に誘い込んでいる姿を見るにつけ、県人会執行部の先輩たちは、いささか刺激を受けたかのように見てとれた。
 おそらくそれがバネとなって1974年度から県人会は、支部対抗陸上競技大会や琉球民謡大会などを年中行事の中に取り入れて、県人会が主催するようになった。

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