ホーム | 日系社会ニュース | 《ブラジル》日・ブ折衷の陶芸目指して=-デカセギ新世代、福澤さん=(上)=10年修行、脱原発運動も

《ブラジル》日・ブ折衷の陶芸目指して=-デカセギ新世代、福澤さん=(上)=10年修行、脱原発運動も

ブラジル陶芸の可能性について語る福澤さん

ブラジル陶芸の可能性について語る福澤さん

 陶芸の道を求め脱サラ、訪日就労。そして昨年末に帰国、ブラジルで制作活動を本格的に始めた元デカセギがいる。サンパウロ市セントロのオリド文化センター(Av.Sao Joao, 473, Centro)でCCBras(ブラジル現代陶芸協会、生駒憲二郎会長)が開催している作品展示会「セントロの陶芸(Ceramica no Centro)」に出展している福澤マコトさん(42、二世)だ。日本で陶芸を学び、現在はブタンタン区の自宅で窯作りをしている。展示会は来年1月28日まで、入場無料。

 福澤さんはサンパウロ州レジストロ市生まれ。日本語のみの家庭環境で育ち、日ポ両語に堪能だ。5歳で父の仕事のため引っ越したバイーア州で初めてブラジル人学校に通い、ポ語を習得した。
 1995年にサンパウロ市のマッケンジー大学製品デザイン科に入学し、授業で初めて陶芸に触れた。「無心で作品を作り、教員にも良い評価をもらった」とふり返った。
 不動産会社で働きながら大学に通っていたが、最終学年で学費が支払えなくなり休学。自分の将来にも悩んでいたため、2年後に退学を決めた。
 福澤さんは陶芸作品を制作した授業を思い出し、「仮に収入もなく辛い生活になっても陶芸制作なら人生の仕事として続けられる」と確信。陶芸を学ぶため訪日就労を決意し、03年から新潟県上越市の電子部品工場で働き始めた。
 1年半ほどかけて日本の生活に慣れた頃、信楽焼きに興味を持ち滋賀県に移った。引越し後の勤め先で正社員に昇格して生活が安定したこともあり、陶芸教室に通い基礎を学んだ。
 05年~10年の間、日本人作家の下で信楽焼を学んだ。釉薬を使わない陶芸作品に興味を持った福澤さんは、他にも伊賀焼、丹波など中部~中国地方の陶芸作家を訪れるなどして勉強した。
 訪日前は漠然と「滞在は10年ぐらい」との目安をもっていたが、場合によっては日本永住も視野に入れていた。そのため東日本大震災で福島原発事故が起きた後、日本国内の社会問題を深く知るために京都市内で行われた脱原発運動にも参加した。また、フットサルやサイクリング、祇園祭りの神輿担ぎなど様々なども積極的に楽しんだ。
 デカセギには珍しいタイプだ。「左翼運動と言われるが問題は問題。日本を知るために行った。そこで陶芸家をはじめ色々な人と知り合えた」と語った。ほかにも普天間基地・辺野古移設問題はじめ様々な社会問題の勉強会や抗議集会などにも足を運んだ。
 15年に同市左京区花脊(はなせ)で閉業したホテルの管理人である故カワイテイコさんと知り合い、その場所を借りて小さな窯を作った。初めて自分の窯を持った福澤さんは住み込みで一年間ほど作品作りに没頭した。(つづく、國分雪月記者)


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 福澤さんは小さい頃から絵を描いたり、板で刀を作るなど工作が好きだった。それゆえ、大学受験の際は「なにか物作りがしたい」と製品デザイン科を選んだそう。レジストロ市に住んでいた頃は屋外の風呂炊き係をしていた。懐かしい五右衛門風呂のようだ。「祖父と犬と一緒に薪をくべて火をおこすと、煙がたくさん出ていた。そういうこともあって制作中に出る煙もイヤだと思わない」と思い出を語った。そういった子ども時代の体験も下地となり、釜で作品を焼く陶芸の道に惹かれたのかも。

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