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どこから来たの=大門千夏=(9)

 私達が住んでいるこの五軒長屋の住民で、払っているのは多分バリグ社に勤めている隣のご主人位だ。
 しかしそれも微々たる額だろう。三軒目は外交員(と言えば聞こえがいいが、一軒づつ何か小物を売り歩いている人だ)四軒目はパン屋を持っていると聞いた。五軒目は会計事務所に勤めている。みんな小市民でギリギリの生活をしているのがよくわかる。着るものはどこの家も全部奥さんの手作り、子供は裸足かゴム草履で遊んでいる、車を持っている家は一軒もない、週末はみんな家の前に出ておしゃべりしてゴロゴロ過ごすか、大工仕事、ペンキ塗り。これが庶民の生活なのだ。我が家だって似たりよったり。彼らが税金を払っているとはとても思えない。
 夫は毎晩帰ってくると税金を払いたいとこの話を繰り返す。其の度に私は「…ダケド…」と言って下を向く。これ以上言うとケンカになる。
 星の数ほどもいる男の中で、よりもよってこんな男と結婚してしまった。ばかばかしくて呆れてうんざりする。結婚前にわかっていたらサッサと解消していたのに…これから先、習慣も考え方も文化も言葉もすべて違うこの異国で生きて行くことを思うと、情けなくて、ゆうつな気分になる。税金を払うことより収入を上げる事を考えたらどうかい…そんなことすら気がつかない男と、この先暮らしてゆくのかと思うと暗澹たる思いで顔も見たくない、返事もしたくない。…この男は一生貧乏する。間違いない!
 其のうち彼は諦めたらしくて何も言わなくなった。
 ある夜、遅く帰ってきた夫は何時になくしょんぼりして肩を落としている。
「どうしたの?」
「…弁護士を紹介してもらって、会ってきた」
 へエーこの人、本気で聞きに行ったんだ!
 税金を払いたいがどのようにしたら良いかと聞いた。すると弁護士は変な顔をして首をかしげて、「えっ! もう一度言ってください」と言うんだ。それから僕の収入を聞いてから、
「イヤー親子三人でこの位の収入では払う必要ありませんよ、と言ったんだ」そう言ってひどくおちこんでいる。
「其のうえにだよ、じっと僕の顔を見て…それにしても…私は三〇年間弁護士の仕事をしていますが、みんなどうやったら税金を払わないで済むだろうかと相談に来るのに、貴方のように税金を払いたいがどうしたら良いかと聞きに来た人に…初めて出会いましたよ。貴方が初めてだ。いやあ驚きましたなあ…そう言って心からびっくりしていたんだ」と真面目な顔をして言う。
 私はお腹の底から思い切り笑いたいのを我慢して、下を向いていかにも同情するように「ソオナノー」と小さい声で言った。
 弁護士はさぞかしびっくりして、おかしくて、今頃は「一つ噺」の種にしているに違いない。夫はすっかりしょげかえっている。
 しかし同情してほしいのはこっちの方だ。こんな男を選んで…私の方がずっと気がめいっている。
 弁護士のおかげで一段落はしたが、それでもしばらく私はむしゃくしゃイライラしていた。が、次第に頭の温度も下がってきて冷静に周りの事が判断できるようになってきた。
…うん、まあそうだ。これから先、離婚するほどの大喧嘩をしても、こんなに大真面目な男なら慰謝料も子供の養育費も間違いなく滞ることなくきちんと払ってくれるに違いない。ならば良しとするか。世の中にはいい加減な男が多くて路頭に迷っている女がたくさんいるが、この男なら大丈夫。彼は「保険付き亭主」ってことだ。

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