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どこから来たの=大門千夏=(75)

 「水代、一〇ドル! 二人で二〇ドル、それから、これに税金やらサービス料やら、二五%かかる」
 「じゃあ二人で水だけで二五ドル。まさか!」二人で顔を見合わせた。
 あわてて残った水をいじましくコップに注いだ。無理して飲んだ。こんな時、お生まれが判るのよね、と言いながらやっぱり飲んだ。残して立ち去ることがどうして出来ようか、できる人は余程育ちがいいのだ。
 飲みながら、なんて貧乏くさい事、こんな時半分残して立ち上がると言う事がどうしてできないのだろうか、と恨めしく思う。思いながら又飲む。料理が高いのは納得するが、水に二五ドル。
 どう考えてももったいない。と二人で一滴も残さずに飲んだ。
 外に出るとおなかがチャプンチャプンしている。アア満足と後悔がいりまじる。
 「お水をたくさん使っちゃだめ、お魚さんの住む所がなくなるから」と、五才の孫が今朝言った言葉を歩きながふと思い出した。
 そういえば先日、何がし評論家がテレビで難しい顔をして話していた。
――砂漠化の影響を受けている土地は地球全陸地の約四分の一です。日本の面積の九五倍に相当します。これは世界の人口の六分の一、約一〇億人が影響を受けているのです――と。
 あの時は何も思わなかったが、今、高い高い水代を払わされて、初めて水の事を真面目に考える心の余裕が生まれた。
 三〇年も昔の事、レシーフェ市に住んだことがある。
 車でペルナンブコ州の奥地に旅行した時のことだった。雲一つない澄み切った青空の下、大地は茶色の荒野だけがどこまでも続き、行けども行けども何時間走っても、緑を感じさせるものは何一つ見えなかった。
 小さな村を通り過ぎようとしたとき、炎天下に女子供が、頭にバケツや空き缶、鍋、ツボなどを乗せて、連なって歩いているのを見かけた。水汲みに行くという。五、六歳の子供までが、片手にやかんを持って歩いていた。
 私達は近くのかなり大きな川まで行ってみたが、湧き水を取るために掘って掘って、上流から下流
までずっと穴ぼこだけで、川床には汲み上げる水は全くなかった。
 「この川にはもう水は一滴もないんだ。今ではここから二キロ先の川までゆかなきゃならない」近所のバールの主人はまっ茶色に日焼けした顔を曇らせ、かっかと照り付ける空を見あげて、「あそこだって、いつまで水があるか…」大きなため息とともに話していた。
 あの村には今でも人々が生活しているのだろうか。今もって一日の大半を水を求めて歩き回っているのだろうか。
 そんな時代が、私の身辺にも起こる日が来る? 信じられないし想像もできない。しかし知らないだけで、ヒタヒタと迫って来ているのかもしれない。            (二〇一三年)


やられっぱなし(中国)

 中国雲南省は地図で言うとラオスの上、ミャンマーの右、チベットの下にあって、ここには漢民族は少なく、白族、ナシ族などいわゆる少数民族が住んでいる。
 見渡すと美男美女が多い。特に鼻の形が良い。細くまっすぐに長くて、モンゴリしたいわゆる団子鼻はいない。女性は色白の肌に化粧気がないせいか若々しく清楚で良い。笑顔に優しさがこもっている。

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