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藤井勇人さん=建築士取得、邦人で半世紀振り=5年がかりで官僚制と苦闘=建築で日伯繋ぐ〃新日系人〃

藤井勇人さん

藤井勇人さん

 「この5年間は、まさにブロクラシー(官僚制)との戦いだった」――こう振り返るのは、藤井勇人さん(39、兵庫県)。この4月、日本人として約半世紀振りにブラジルで「建築士」資格を取得、認定機関が建築・都市計画審議会(CAU)に移行してからは邦人第一号となった。外国人にとって障壁となっている煩雑な資格取得手続きに粘り腰で取組み、晴れて建築士となった藤井さんに今後の展望と併せて話を聞いた。

 建築業界に詳しい相田祐弘さん(86)によれば、早稲田大学建築学科卒の相田さんと笠原佰さんが1957年に初の工業移住者として来伯。相田さんが建築士資格を取得したのが69年で、建設事務所「エキッペ4」をともに設立した後輩が取得したのが最後で、「日本人としては約半世紀振り」という。
 藤井さんは駐在員子弟として幼少期にリオ在住。その後、帰国して早稲田大学卒業後、建築デザイン業界などで経験を積み、09年に移住。ブラジル戸田建設㈱を経て、15年からは聖市JH建設プロジェクト・マネージャーとして同館立上げにも尽力した。
 「建築とデザインの分野で日伯を繋ぎたい。当地に長期滞在する日本人としてできるのが、両国で活躍する建築家達が更に活躍できるような機会を作る繫ぎ役」。そう信念を語る藤井さんにとって、資格取得は自然の成り行きだった。
 建築士資格は、当地では5年制の建築系大学を卒業すれば自動的に取得が可能だが、外国人が取得するには当地の国公立大学における学位移転認定に加え、高度なポ語運用能力という高い壁が立ちはだかる。常勤で働く藤井さんには、後者しか選択肢がなかった。
 資格取得までには予想以上の労力と歳月を要した。特に骨折りだったというのが、学位移転認定だった。準備から5年がかり。「最後は官僚制に負けじという執念。完全に意地だった」と豪快に笑い飛ばす。子供時代をリオで過ごし、移住を決意して腰を据えてやってきた〃新日系人〃藤井さんだからこそ、半世紀振りの邦人建築士の誕生となった。
 「移住9年目にして、ようやく出発点に着いた心持ちだ」。JH設計監修をした建築家の隈研吾氏から中南米エリア全体の代表を任され、日伯を建築で繫ぐ夢を追う。
 不景気の煽りを受け、建設業界も苦しいまま。JHで隈氏の建築が脚光を浴びたが、「受注に繋がりそうな案件はまだ少ない」のが現状。「資格を取ったからといって需要は多くはないかもしれない。でも、それがあれば日本で活躍する建築家達が当地で何らかの行動を起こす際に、裏から支えることができる」。
 藤井さんの将来の目標は当地に純和風日本旅館を建てること。「旅館は建築のみならず、料理、おもてなしなど、日本の総合芸術の結晶だ。現在の日本を紹介し、日伯を繫ぐ形を作れたら」と先を見据えた。


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 藤井勇人さんが最も苦労したのは日本の大学で得た学位を、当地で認定させる作業。認定したくないからわざと無理難題をふっかけてくる相手と「書類上の格闘」を繰り広げた。最初のUNICAMPでは10カ月も待たされた挙句、「熱帯建築論」など日本にない特殊科目ほか、「授業時間数が不足」と基礎科目の受講を求められ断念。次のUNESPでは、日本には存在しない書類提出を要求され、揃えることは不可能だった。最後のUSPでは申請しても音沙汰なく、8カ月目にようやく口頭面接試験。認定通知が来たのはなんと1年後。その間、外国人のポ語認定検定試験(CELPE-Bras)で上級を取得するために語学学校に通いつめ、4回目で合格。都市計画審議会(CAU)で資格申請したが一切連絡がなく、本部に問合せると「回答する義務なし」と一蹴。伯国内の過去の職場にまで執拗な追跡調査が…。こうして5年がかりで建築士資格が認められたという。
     ◎
 藤井さんは11年からイベント・プロデューサーとしても活動し、日本の雑誌にブラジル建築について寄稿する。日本の建築家を招いて講演会を企画するなか、偶然、知人を通じて知り合ったのが隈研吾氏だった。13年の当時はまだ新国立競技場受注前のことで、ギャラなしにも係らず、二つ返事で承諾してくれた。その数カ月後、JH案件を受注するために戸田建設で技術営業担当だった藤井さんの伝手で隈氏に声が係り、設計監修をすることに。もし、藤井さんと隈氏との出会いがなければ、注目を呼んだ地獄組みの「檜のファサード」も生まれなかったかも。藤井さんへの連絡は(11・94543・2822、hayatao@gmail.com)まで。

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