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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(4)

 戦史研究家、串出圭一著(ソ連軍侵攻と関東軍の戦い)によると、わが連隊が迎撃したソ連軍の編成は次の通りである。
「第三六軍…戦車一箇旅団(二五〇輌)、七箇狙撃師団、二箇陣地守備隊、二箇独立戦車大隊及び二〇〇門以上の砲兵群」
 対するわが連隊の装備は、九〇式自走野砲一門、三八式野砲一門、大隊砲四門の外、重機関銃約一五梃に過ぎない。野砲も大隊砲も口径七・五㎝である。これでは支那戦線向けの装備である。
 対戦車砲もなければ、戦車も飛行機もない。兵員だけは戦時編成並みの、約三〇〇〇名であるが、三〇%は練度零の招集兵、四〇%は内地から送られてきた青年学校出身者の初年兵だから、練度は一期の検閲を終了した程度。その外、三%の幹部候補生、二%の古兵と残りは輜重兵。
 それにしても、最前線に機関銃中隊を丸ごと展開布陣させる迎撃戦は、たかが候補生に過ぎない私にも、理解できなかった。
 敵は一箇旅団もの戦車を先頭に押し立てて侵攻して来ている。野砲弾をはね返した戦車に対し、機関銃五梃が一斉に火を吹いたとしても、戦車一輌すら撃破できないのは明らかである。そう思うと、まだ襲ってこない戦車群に、踏みつぶされる幻影がちらつく。
 演習中に中隊長が言った言葉を思い出した。=ドイツから来た夕弾という弾丸は、この機銃で射っても、戦車の厚い鋼板を貫通するそうだ=
 だが夕弾という気のきいた弾丸は、配備されていなかった。
 われわれ機関銃中隊が全滅しなかったのは、ソ連軍が満洲中央部への進出を急いでいたからである。幸運以外の何ものでもなかった。それにしても僅か四日間の戦闘で、連隊は半減したのだから言うべき言葉がない。
 正午頃、ソ連軍は砲撃を開始した。すさまじい量の砲火である。ほとんど同時に躯中に震えがきた。武者震いというものだろうが、しばらく止まらなかった。
 西側大平原への開口部上空で、破裂する無数の榴霰弾の黒煙は空を覆い、立ちのぼる砲煙も加わって陽光をさえぎり、戦場一帯は夕暮時のように薄暗くなった。
 ソ連軍の砲声は休みなく重なって響き、無数の砲弾は擦過音とともに黒線を引いて一瞬の間に頭上をこえる。圧倒的な敵の砲火である。終りがないと思われるように続いた敵の砲撃が、ピタッと止んだ。腕時計は一八時を指していた。
 八月一五日午前九時、ソ連軍の砲撃が始まった、昨日と同様に数一〇門と思われる火砲が、間断なく射ってくる。西、中央、東の各丘陵の上空は敵の砲煙と上空で炸裂する砲弾の黒煙で、戦場一帯は昨日と同じように夕暮のように薄暗くなった。
 その間を縫うように、歩兵同士の戦闘が中央、東の丘陵で繰りひろげられていた。ソ連軍の後続車輌を断つために、出撃した橋梁爆破隊は、三ヵ所とも成功しなかった。
 第七中隊の二箇小隊は、眼下の中村山西側の戦闘で全滅する。薄青色の発射煙が小さな中村山を覆っていた。
(※註=中村山は昭和六年八月、対ソ戦を想定した地理調査のため、大興安領を探索中の中村大尉一行が、長学良軍によって不法に処刑された地である。中村大尉遭難の石碑が、中村山の右方に建っていた)

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