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自分史=私のシベリア抑留記=(39)=谷口 範之

 食事を終え、いつものように病室を覗いて患者の様子を眺めた。舞台上の下士官連中が、一斉に私を見て手招きしている。傍に行くと、
「さっきはよくやってくれた。将校の食缶の件も聞いているぞ」
 古参の下士官が声をかけてきた。食事当番の二人を殴ったことは、丸太壁を通して筒抜けに聞かれていた。将校の食缶事件は病院の内部にまで噂がひろまって、患者の下士官たちは私に好意をもってくれていたのだ。
 このことが病院閉鎖のあと、大きな幸運を私にもたらした。後述する。
 入院患者のうち、回復の見込みのないものは少数であった。チタの病院へ転送される者、死者、さらに退院する者もいて、在院患者は残り少なになった。
 三月末、深奥シベリアの四温の日に、一日だけ晴天無風の春を思わす暖かさが訪れた。南面の窪地の雪は消え、数カ所だけ枯草の中から淡い緑がのぞいていた。父母を偲び、妻子に思いを馳せ、狂いそうになる飢餓、酷寒、耐えがたかった強制労働の日々が、本当にあったのだろうかと思われる陽気であった。天はこのような思いがけない恵みを、哀れな捕虜にもたった一度だけ与えてくれた。
 班長の許可を得て、希望者を日光浴に連れ出した。自分で歩けるもの、肩を貸し腕を支えて一〇人余りを連れ出して日光浴をさせた。
「春はもうすぐだよ。早く元気になって、一緒に日本へ帰ろうな」
 と、話しかける。誰もが忘れていた笑顔がそこにあった。ただそれだけのことが、生きようとする力を甦らせたようで、彼等は目に見えて回復していった。暗い日々の連続で、その日の思い出だけは、明るい日差しとともに鮮明な光景として残っている。また自分が生き残ろうと、そのことばかり考えて行動してきたラーゲリ暮らしのなかで、唯一弱者の患者に対して行った私の善行であった。
 四月に入り日差しが柔らかくなってきた。同時に前途は暗いままであったが、荒れ果てた心に柔らかい日差しがさしこんで、すぐ近くまで来ている春の兆しがほのぼのと感じられるようになった。四月中旬、残った患者も少なくなり、自力で歩けるようになってきた。病院は閉鎖となり、患者を宿舎に搬送して、私たちは勤務を下番した。


  一一、下士官は古狸

 宿舎に戻ったが、周囲は病み上がりが占めていて、作業はなかった。
 朝夕の点呼は、将校、特に小之原が自分の権威を保つために行っていることが明らかであったから、私は決して出席しなかった。あの疑い深いソ連軍の将校もサーゼントも、一度も点呼に立ち会わなかったし、人員点呼の結果をソ連軍関係者に報告しているのを見たことがなかったからである。
 そうしたある日、患者の一人であった沖縄出身の比嘉伍長が、
「俺たちの部屋へ来いよ」
 と、誘ってくれた。将校は別にして下士官と一般兵の間では、階級意識はかなり薄れていた。彼の同僚は谷口なら呼んでやれよ、と気持ちよく同意したという。「俺たちの部屋」には下士官四人と一般兵二五人がいた。南側で小さなガラス窓がついている暖かい部屋である。

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