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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(43)

 終戦後連行された捕虜たちは、右の適性検査をされないで、一様に重労働にこき使われた。その上食料はまるで足りなかった。二五四連隊が放りこまれた三収容所では、終戦からその年の末までの約一三〇日間の兵の食料事情は、九五%も不足していた。その上シラミが大発生し、それにつれて発疹チブスが流行した。弱り目に祟たり目といってよいか分からないが、肺炎を併発するものが多数出て、四〇%もの死者が出るという大惨事に到った。
 モルドイ村のラーゲリでは、私を含む二五名が死ぬかもしれない重労働の伐採に行って難をまぬがれた。そして今回は比嘉伍長のお陰で、モルドイのラーゲリを抜け出すことができた。人間性が全く認められない、家畜以下の扱いしかされなかったラーゲリであったが、去るとなると名残り惜しさがあった。トラックは砂塵を上げて、坂道を下ってゆく。振り返ると柵沿いに四、五十人の戦友が手を振っている。私たちも立ち上がり、手を振って別れを告げた。見る見るうちに戦友も収容所も丘影に隠れ、監視塔もやがて見えなくなった。
 思えば、初期のラーゲリ内で軍の組織を巌として保持した小之愿が、部下を見殺しにした行為=食料の横領=に私は反発した。そして小之愿に対して抵抗の姿勢を崩さなかったために、一度は謀殺されかかった。その後、奴は懐柔策に転じて、好条件の使役に私を指名するようになった。そのたびに一般兵より、多い給養と活力を得た。さらに将校に抵抗したことで、古狸の下士官連中から仲間同様に扱われて、病兵に紛れ地獄のラーゲリを脱出することができた。
 これで小之原たちとの腐れ縁が、完全に断ち切れた。と同時に小之原への憎しみが、薄らいでいくのも事実であった。

  一四、ノーバヤで同町の先輩に遭う
 
 病弱者を乗せたトラックは、往路を辿り北へ北へと走る。夕暮れ近く見覚えのあるコルホーズ農場に着いた。今夜はここの集会場に一泊するという。夕食なし。
 一〇ヶ月前、ここより北寄りに設営された大テントで野営した。空腹で胃が痛み、テント内の草をちぎって口に入れることも出来なかった。被った毛布に吐く息が真っ白に凍りつき、夜中には猛吹雪が荒れ狂った。テントの裾から吹き込む雪で、テントの中は雪景色を呈した。長い長い一夜だった。
 そんなことを思い出しながら、セメント張りの床で眠りについた。モルドイより暖かく、割合よく眠れた。夜明けと同時に出発。例によって食事なし。夕方鉄道沿線に程近い、大きな建物に収容される。ノーバヤという町だと情報が入る。
 ノーバヤは貨車に詰め込まれて、到着した町である。チタ市の東方に位置している。収容された建物は大倉庫のようだ。床板は張ってなくて土間である。雨がシトシトと降り始めた。モルドイのような寒気はなく生暖かい空気であった。
 夕食抜きらしい。昨日から食事にありついていない。頭の中を占めているのは食物のことだけである。ラーゲリのうす粥が目に浮かんできた。膝を抱いて小雨の微かな音を聞いていると、いきなり人影が入ってきた。人影はいきなり、
「この中に広島の人はいないかな」
 と、問いかけた。手を挙げると傍に来て腰をおろした。

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