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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(54)

 毎日一〇数人か三〇人ぐらい、死んでいると専らの噂である。ラーゲリで奴隷以下の家畜のように扱われ、衰えて病弱者になった。そして命は取り止めたが役に立たないと言うことで、北朝鮮まで来たものの病が重くなって息を引き取る。無残であった。患者を診察している軍医の表情には、憐憫の表情は浮んでいなかった。
 モルドイ村の病院に派遣されてきた日本の軍医は、せめてビタミン剤かブドウ糖の注射でもあれば、助かる兵もいるのに、と嘆いたことを思い出した。
 ここまで来て命果てるとは、不運と言えば不運だが、この収容所の状況が少しづつ分かって来るにつれて、労働を除きシベリアのラーゲリと少しも変わっていないことに気付いた。今、ここの気候は夏場で、日陰は涼しく申し分ない。これが冬になったらどうなることだろうか。
 戦傷者がいない野戦病院のような、テントの内部の奇妙な静けさが、重くのしかかってくる午後であった。遣る瀬なかった。 

  六、食物外 

 三合理の収容所は、表側だけ厳重に有刺鉄線を張ってあるが、他の三方は錆びた鉄線がお座なりに張ってあった。監視塔もない。監視は極端に緩くなっているのだが、一人も脱走しない。たとえ脱走しても生命を保証されないことは自明であったし、食うことの心配がある。しかも日本が近くなったとはいえ、逃げのびる自信はなかった。ここにいれば、飢餓線上をウロウロしながらでも、最低以下ながら食は確保される。
 数日、屋根のない防空壕で暮らした後、空いた社宅に入ることが出来た。入ってみると、畳や建具など取り払われて、床板が無様にむき出しになっていた。が、野天暮らしよりはいい。しばらく薄粥の配給が続く。
 以後の食糧事情については、第三章の九項で一括記述しているので、本項では省略する。

  七、炊事用薪採り

=全員炊事用薪採りに行ってくれ。鋸、斧などないから、各自の体力に応じて適宜持ってきてほしい=
 と、触れが回ってきた。
 各自てんでに、小川の傍に集まってくる。ここに五千人位収容されていると聞いたが、一千人ぐらいしかいないようだ。
 今にも崩れ落ちそうな土橋を渡ると、有刺鉄線の簡単な出入り口が、大きな南京錠を吊るしている。南京錠なんか有っても無くても同じような出入り口で、カンボーイが錠をはずすのを待ち、ゆっくりと緩い上り坂を登る。
=適当な場所を選んで、一本づつ折って、持って帰ってください=
 と、炊事係りらしいのが触れてくる。簡単だと高を括り、やってみてがっくりした。
 腕太以上の立ち木はなくて、せいぜい親指二つ分程度の木が多い。それでも曲げ捩り、悪戦苦闘の末、ようやく肩に担いで山を下った。我ながらこれほど体力が落ちているとは思わなかった。

  八、鉱石採取作業で炊事当番

 酷暑が続き、誰も日陰でげんなりしていた。
 朝、全員広場に集合と触れが回ってきた。到着順に四列縦隊に整列する。全員が揃ったところで、よくよく見回してみると、やはり一千人程度の人数である。

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