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沖縄戦の惨苦――戦争孤児 親富祖政吉=第4回

新たな希望を求めて。第4次青年隊移民37人と共にブラジルへ

新たな希望を求めて。第4次青年隊移民37人と共にブラジルへ

 しかし僕は勉強にあまり身が入らず、学校を止めようかと思いながら2年生になっていました。2学期になって宮古島から仲村という社会科の先生が転任してこられた。
 社会科の試験の成績が良かったということもあってか、先生から「今日先生は宿直だから、色々と話をしたいからお出で」と誘われました。
 先生は、学校での勉強のことや人間の生き方など色々と話をして、人生論のような本、ものの見方について書いた本、『人生手帳』という働きながら学ぶ人々向けに書かれた月刊誌などを渡してくれました。仲村先生は、4年生の時まで担任でした。僕は、これらの本を読み続けました(ブラジルに移住して後まで読んでおりました)。
 僕は、これらの本を読んで、ものの考え方や自分についての考え方が変わりました。
 人に直ぐ反発したり喧嘩をしたりしなくなり、特に叔父さんへの関わり方、僕自身について考えるようになりました。
 叔父さんは、直ぐ上からこうしなさいと仕事のことを押し付けてくるので、僕は反発ばかりしていました。叔父さんとしては良い子に育てたいという思いだったと思うのですが僕は、やはり愛情が欲しいという思いだったのだろうと思います。
 オカーとオバーに甘えて育てられ、自分のいうことは何でも受け入れてくれたので、そういう
育ちをしていました。戦争で何もかもがなくなり、オカーもオバーも亡くなり、叔父さんは叱ってばかりで教えてくれない、という思いが強かったのだろうと思います。
 僕は、仲村先生が渡してくれた本を読んで、このような自分が見えてきました。僕が仲村先生と先生が渡してくれた本から受けた一番の影響は、自分で自分を見つめる心を見つけたことだと思います。
 僕は、先生のことをこのインタビューで改めて思い起し、遥か遠い青年の頃の先生について懐かしく想い出しています。

▼沖縄青年隊移民――
希望の地ブラジルへ

 僕が沖縄開発青年隊に入隊したのは1957年でした。そして6ヶ月の訓練を経て第4次隊移民としてブラジルに移住したのは同年6月10日でした。何故ブラジルに移民したのか。それには2つの理由があります。
 ひとつは、戦争が終わって後の幼少年の頃から続いていた皮膚病を治したい、ということでした。夏の暑い時、また冬になって寒くなる時、僕の全身の皮膚が赤くなり、次第に黒くなっていくのです。冷たい風が吹くとヒリヒリと痛む。それが不気味でもあるし不安でした。
 あちらこちらの病院の皮膚科に行って診察してもらい薬を飲んでも治りません。僕は、県庁統計局の様々な調査統計のアルバイトをしておりましたが、ある日偶然通りかかった県庁近くの病院に診察してもらいました。
 医師は、君のアレルギー症は、今の医学では直しにくいので、年中気候変動の少ない温暖な所に行きなさい、と勧められました。学校の社会科の人文地理で世界のことを勉強していたので、ボリビアが良いかもと思い、県庁移民課を訪ねて色々と話を聞いたりしている時に青年隊移民のことを知り、ブラジル行きの青年隊に関心を持ち入隊することにしたのです。
 ブラジルに渡ってから僕のアレルギー症は不思議なことに直ぐに良くなり、一度も発症したことがない。あの先生が言った通り気候温暖な所で僕のアレルギー症は治ったのです。幼少年時代の僕を苦しめたあの不気味な病症が治ったのです。戦火の中をさまよい、砲弾で傷を受け、全身疥癬だらけとなった心身の後遺症だったのか。
 僕は、あの病院を1度訪ねたきりですが、忘れたことはない。遥かに遠く霞む先生の面影が想い出され、思いに更けることが有ります。
 ブラジルに移住したもう一つの理由は、アメリカ軍の軍事基地建設が進む沖縄にはもう住みたくない、という思いからでした。沖縄青年団協議会(沖青協)の基地反対の運動に参加したこともありました。反対運動に行きたいから行くというものではなく、浦添青年会長がいけない時に参加するというものでした。(つづく、※合評会は27日午後2時から沖縄県人会本部。この記事が掲載された『群星』第4号は同本部とニッケイ新聞編集部で無料配布中)

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