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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(7)

 正輝は食べ物についても不平はなかった。献立は日本的で、毎日、3度の食事が支給された。朝食は7時、シソの葉の香がする梅干、たくわん、味噌汁、かぶの酢漬け、乾し魚、大豆の煮物、野菜類。昼食は12時、たくわん、にら、肉と野菜(大根、じゃが芋、玉ねぎ、キャベツ)の煮物、たまに乾燥れん根が出たりした。夕食は4時に出され、朝食、夕食より栄養価が高く、種類も多かった。たくわんなどの漬物や副食品の他に、焼き魚、乾し魚、かまぼこなどの魚料理が一皿、そして、れん根や豆腐の煮物、ご飯、汁物、キャベツなどの胡麻あえが出された。

 しかし、若狭丸の衛生状態はひどいものだった。水浴びは週に2回、一回の使用水量はバケツ3杯に限られていた。もっとも、女性は髪が長いので、もう2杯使える。その他の日は少し温めた海水で体を洗った。水浴びするための支度は日本人なら、だれももが度肝を抜かれるようなひどいやりかただった。浴室は男女別で二つずつ、服を脱ぐスペースなどなく、水浴びの時間を短縮するため、列をつくらず移民たちは船底で服を脱ぎ、水浴びがすんだら船底にもどって体を拭き服を着た。
 男たちには髭剃りの石鹸など与えられず、それぞれが荷物に入れてきたかみそりと水で髭を剃った。洗濯用には一人につき、週に二回、バケツ4杯の水の使用が許可された。各自の荷物は日本当局の指導でできるだけ少量ということだった。それはできるだけ多くの移民を乗せるためで、重さも大きさも限定されていた。
 関係当局は軍用靴のように安くて丈夫な靴、寝巻き用に浴衣1、2枚、ただし前が開かないようボタンつきのもの(正輝のは沖縄風で前を合わせて帯で結ぶ日本式のゆかただった)。それから行灯はかま、これは脚をみせないために長い靴下が対になっている。それからイタゾウリとよばれる下駄、毛布、タオル数枚、タライ、食器類、針と糸、包丁かナイフ、男性はかみそり、それに鏡、メモや便箋、封筒、必要な薬などだった。ぜいたく品、売り物の食べ物、武器はご法度だった。
 医務室はあったが、衛生管理はゆき届かず、通風は悪く、乗員過剰で、船内の空気は伝染病の感染にはうってつけで、しかも、病気に効く薬など何もない。

 脳膜炎。正輝は新しいカリキュラムに従って8年ちかく勉強していた。
 そのカリキュラムは明治政府の教育専門家が特別に作成したもので、日本を短期間に世界の強国と肩を並べさせようとフランス、ドイツ、イギリス、アメリカなどの先進国の知識、科学を広報する目的で、数年前、主要都市に配布されたものだった。正輝は水準の高いその本を手に勉学していたのだが、それにもかかわらす、彼は脳膜炎という名を知らなかった。
 航海中にどんどん死んでいく人たちを目のあたりにし、その名称を知ったのである。その脳膜炎が若狭丸の乗客をとつぜん襲い、みんなを地獄に陥れたのだった。
 この脳膜炎という言葉は、神戸からサントスまでの間に抱いた夢といっしょに生涯忘れられないものとなった。だれかがその名を口にするだけで、からだが震えた。不可抗力の死者を次から次とだす病気。彼にとって、脳膜炎は死という言葉に重なった。当時、彼は脳の悪性感染がどういうものなのか理解できなかった。多少医学に通じるものが「脳脊髄膜炎」のことだとみんなに説明した。伝染病の一種で病人の体力にもよるが、たとえ適宜な薬物治療を受けても死にいたることもあるという説明を受けたが、それでも彼にはよく理解できなかった。

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