ホーム | 文芸 | 連載小説 | 臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳 | 臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(15)

臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(15)

 一方、明国は経済的にも軍事的にも最強で、みんな明国を怖れており、武家政治下にあった日本も中国に対し、これに似たやりかたを踏襲していた。極東全域の小国が中国への服従を示すことで、いざこざを避けようとしたのである。ようするに、中国は平和の守護神という役割だった。
 そのうち中国の注意を喚起しないような方法ではあるが、自分たちの欲望をみたすため他国を侵略し、支配する者たちが現れてきた。
 1609年、島津藩主がすでに配下にあった沖縄をはじめとする琉球列島への侵略をはじめたのである。
 島津藩は、歴史的に二つの条件で優位にたっていた。
 尚真王時代から沖縄の住民は武器の使い方を知らなかったこと。また、江戸で、政権をにぎる将軍徳川家康から侵略の許可を得ていたこと。1600年の関が原における徳川と豊臣の合戦のおり、薩摩藩は負けた豊臣側についていた。それにもかかわらず、江戸から遠く離れていることや主要都市の大阪、京都にも距離があること、そして、なによりも薩摩のもつ戦力を恐れ家康は摩擦を回避していた。
 さらに、これまで成果をおさめてきた日本統一の計画に何の影響を及ぼさないとふんだ幕府は、島津の琉球列島への侵略をゆるした。しかし、徳川幕府の許可をえても、島津藩は沖縄を公に支配することを避けた。島の支配者であることがはっきりすれば、たとえ衰退しつつあるとはいえ中国からの政治的、とくに軍事的攻撃は避けられない。無力で貧困の沖縄は三世紀にもわたり、二つの勢力にはさまれ耐えてきていたのだ。
 島津藩主の政治的手腕は優れていたといえよう。徳川政権が誕生する動機となった関が原の合戦では負け側についたにもかかわらず、土地を取り上げられることもなく、そのうえ、中央政権に知られることなく沖縄の長期にわたる支配を継続してきたのだから…。
 もうひとつの薩摩藩の長所は待つこと、敵愾心を隠蔽することに長けていたことだ。そして、藩はしだいに政治的にも戦術的にも力を蓄えていった。表向き藩主は徳川幕府の意向にしたがいつつ藩を維持した。しかし、敵として新しい主君と戦ったことを決して忘れなかった。
 何世紀か過ぎ、かつての敵対意識が頭をもちあげる機会がやってきた。徳川幕府の衰退がはっきり見えはじめたとき、島津藩主は若い睦仁親王の存在にいちばんに目をつけた。睦仁親王は1867年2月13日、考明天皇のあとをついで、明治天皇となった。その年の10月3日、40名ばかりの藩の代表が京都に集まり、将軍の座を放棄するよう書類を作成し、薩摩藩の代表がまっさきに署名した。その代表が西郷隆盛だった。西郷はその年の12月15日、わずか一年ほど前将軍家茂を継いだ第15代将軍、最後の将軍徳川慶喜により正式な政権委譲の場にたちあっている。さらに、西郷は国の大きな変革にのぞみ、あちこちに発生した乱を抑えるための重要な役割をはたした。1868年1月4日、西郷は総司令官として、明治天皇の即位そして明治改革の幕開けに貢献した。明治とは睦仁天皇が自らつけた年号である。
 新政体制の大きな原動力となった薩摩藩士たちが、そのご、重要なポストについたのは当然だといえる。島津藩から極秘にうけていた沖縄の支配権は新政府のものとなったが、結局、その新政府に推挙された藩士たちのものとなった。そして、1879年、沖縄は日本の一つの県になった。

image_print