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『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(26)

水本の奇跡

 

 1960年代半ば過ぎ、バンデイランテ産組もその出張所も消えたが、バストスの養鶏産業は興隆期に入っていた。さらに先に触れた様に、かつて鶏飼いを手伝っていた子供たちが成人になる頃から、規模を急拡大するグランジャが、次々現れた。なお「養鶏場」は、その頃から「グランジャ」と表現される様になって行った。本稿でも、以下、それに倣う。

 1980年前後のことと記憶するが“バストスの水本”という名が広く鳴り響いた。伝聞であったが、右の規模拡大の先頭に立っており、飼育数は百万羽を越し、さらに増えているという。しかも経営者は未だ30代、20代の若い二世の三兄弟だという。眩しいほどの成功ぶりであった。

 その内、ブラジル最大のグランジャにのし上がってしまった。まさに奇跡だった。

 水本兄弟の父親の彰は岡山県人で、1929年14歳で移住してきた。ノロエステ線カフェランヂアへ入植、数年後、バストスへ転じた。彰はカフェー、綿、繭、鶏……と、大胆に事業に取り組んだ。大変な働き者であった。が、借金に頼る処があった。1960~65年頃の彼を知る地元の住人は、こう語る。

 「彰さんは、真面目で誠実な人柄だった。が、借金をしまくって仕事を大きくしていた。高利貸しからも借りており、利子支払いの苦労は、見ていて気の毒なほどだった。町中、彰さんのシェッケは、誰も受けつけないようになった。娘さんが、学校の経費か何かでパパイに『お金が要る』と。

 パパイはシェッケを渡した。娘さんが、それを現金にしようと、知合いに頼んで歩いたが、誰も首を横に振った。長橋さんという人が気の毒がって替えてやった。彰さんは洩らしていた『私は毎晩、青酸カリを枕の下に置いて寝ています』と…」

 この水本家の養鶏は、もともとは夫人が始めた。戦時中の1944年のことで、義兄が転業することになり、飼っていた100羽の雛を譲り受けたのである。数年後、彰も加わり、規模を拡大した。やがて子供達が手伝うようになった。

 前出の地元の住人は、こう続ける。

 「水本家の子供たちは、学校から帰ると、遊んでいなかった。真っ黒になって働いていた。息子は4人居ったが、一人が交通事故で亡くなった。3人ともピラシカーバ農大を卒業した。模範青年だった。長男の豊が父親に代わり、グランジャを経営する様になった。エシャポランへ鶏舎をつくってから、見る見るうちに大きくなった。弟二人が加わった。アッと言う間にブラジル一になった」

 エシャポランというのは、マリリアの近くにある町である。ここを初めとして、ガピラマ(ロンドリーナ近郊)、ポルト・フェリース(ソロカバ近郊)、ルシアニア(ブラジリア近郊)その他へ鶏舎をつくって行った。いずれも無名の小さな町である。が、近くに大きな都市、つまり消費市場がある点で共通している。

 従って「バストスの水本」といっても、実は鶏舎を別の離れた町に造りながら、大きくなって行ったのだ。バストスの様なグランジャの密集地域は病気が多いため、既存のグランジャが無く近くに大都市が在る処を探して、そこに鶏舎をつくり、産卵率を上げ販売したのである。

 後から考えれば、なんでもないことだったが、当時は革命的発想だった。これを思いつき実行したのは豊氏だった。彼は1945年の生まれで、子供の頃から鶏舎で働いていたが、担当は病死した鶏を埋める作業だった。それほど死亡率が高かったのである。40%死んだこともあった。つまり、その現実を身体で味わいつつ育っていた。それが奇跡を生むことになった――。(つづく)

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