実習生事業で全米を走り回っている中で1974年「オイルショック」が起こった、此の頃から日米間では大きな経済摩擦が始まった、製能と燃費の良い小型自動車、格安な鉄鋼や繊維、製能の優れた電化製品、PC用チップ等が日本から大量に輸入され始め、これ等の日本製品は米国社会広範囲に受け入れられていった。それは五大湖を中心とした自動車産業を始め重工業の主要な地区である米国への大きな圧力となり更に大きな政治問題に発展していった。
そんな時韓国からの実習生は毎年帰国者の脱走が増えていき、9年目には全員帰国せず米国内に無許可で消えてしまい、移民局からの要請で韓国プログラムは終了した。然し日本の農業人口も減少し始め、PCによる情報の容易な習得で1ヵ年の米国農家での実習事業に問題点も現れてきた、希望者が減っていき実習期間の短縮と研修視察期間の延長を望む声が出てきた。そして日本では特に農村地での高齢化が始まり後継者は都会に出て行く傾向に移行していった。
日米経済摩擦は次第に政府間で重大な協議が行われ、米国は貿易の不均衡是正を日本に求め米国の得意とする農畜産物の自由化を日本に強く迫って来ていた。此の事は日本の農業に絶大な影響を及ぼし、更なる農家減少をきたし、日本の自給に大きな問題を投げかけると痛切に感じていた。是を解決するには一人でも多くの日本の農林議員、農家、農業団体、農業関連組織、地方の農政従事者に米国農業をしっかりと視察見聞することで、米国農業の弱点を見つけることが出来ると考え、実習生事業と平行して「米国農業視察事業」を提案したが協会は受けてはくれなかった。
私は協会に辞表を出し此の迫り来る米国農畜産物の自由化に対抗するための「米国農業視察事業
を始めることを決意して1979年日本へ飛んだ。最初に此の事業を起こすに当り、農畜産物別に的を絞り視察企画を作成し、PCからのスライド映写で視聴覚説明を用意、また視察にかかる費用概算も準備して各地で講演活動を開始した。最初に北海道へ飛び農業の盛んな帯広で実習生事業で懇意となったJA組織に米国農業視察の公演開催をお願いした、此の講演会には周辺のJA組織、先進農家、市町村の役所農業関係部所から大勢の聴講があり、講演後の質問や米国農業視察の相談まで依頼された。
サンフランシスコに本社を置き東京に支社を開始して始まった事業は年々拡大し全国のJA組織に広く知られて行った、JA組織の中に農協観光部があり全国の支店を通して依頼が殺到した。受け入れ態勢も整え特に日米農業を経験し語学に長けた人材確保が難しかったが、実習生の経験者を雇用し視察の案内、通訳をまかせ会社は多くのスタッフを抱えていった。