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知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(12)

第 4 節 幕府政治の展開

 18世紀に入ると、年貢米に依存する幕府財政は、米価に左右されて絶えず不足がちで、旗本・御家人への俸禄も事欠くようになった。1716年、第8代将軍徳川吉宗は「世直し」を唱え、率先して粗衣粗食を実行して、家臣や町人に倹約令を出した。
 諸大名には石高の100分の1の米を幕府に上納させる「上米の令」を発した。更に新田開発を進め、米の増収に努めた。百姓には作柄にかかわらず5公5民の年貢を義務づけて幕府の財政立て直しに成果をあげたが、百姓の負担は増えた。1732年の大飢饉では、西日本中心に一揆と打ちこわしが起こった。
 吉宗は目安箱をもうけて庶民の意見を吸い上げ、町奉行に大岡越前守を抜擢し、改革にあたらせた。大岡の進言で、公事方御定書(くじかたおさだめがき)をつくって裁きを公平にし、貧民のために小石川養生所をもうけ、町火消し「いろは四十八組」を組織した。
 これら将軍吉宗の新しい政治を享保の改革という。幕府の緊縮政策はしばしば景気の停滞をまねいた。1772年、吉宗の引退の後、老中に取り立てられた田沼意次(1719―88)は、商業・流通の活性化によって財政を豊かにしようと考えた。
 田沼は商人組織の株仲間を公認し、彼らの利益の独占を認める代わりに多額の運上金(営業税)を徴収した。新田を増やすため、印旛沼(千葉県)の干拓に商人の資金を出させた。また、蝦夷地(北海道)を開発し、海産物の流通ルートを開いた。殖産興業に先見性があった。
 1793年、浅間山が大噴火した。そのため天候不順による大飢饉が発生し、100万人近い餓死者が出た(天明の大飢餓)。各地で一揆が起こり、田沼は権力争いの中で老中を辞めさせられた。田沼が政治の中心にいた約20年間を田沼時代という。この時期に青木昆陽(1698―1769)や上杉鷹山(1751―1822)のように、様々な改革を行った人々もいた。
 1787年、第11代将軍家斉のとき、幕府は白河藩主松平定信を老中首座に任命した。定信は凶作や飢餓に備えて農村に備蓄米制度を定めた。一方、都市に流れ込んだ百姓に資金を与えて帰村させ、農村の復興に努めた。
 更に借金苦の旗本や御家人を救うため、商人からの借金を帳消しにさせた。その代わり武士には倹約を徹底させ、学問・教養・武術を奨励した。昌平坂学問所を幕府直轄として朱子学を学ばせ、それ以外を異端の学とした。こうした6年間にわたる定信の政治を寛政の改革という。

 江戸時代の文化の盛衰は幕府の経済政策と密接な関わりがあった。寛政の改革と19世紀前半の天宝の改革では財政再建のため、幕府が緊縮財政をとり倹約を奨励したので経済が勢いを失った。しかし2回の改革にはさまれた文化・文政の25年間は緊縮政策がゆるみ、経済の活性化にともない町人文化が花開いた。これを化政文化という。その文化の中心は巨大な消費都市の江戸であった。
 俳諧では与謝蕪村が自然を詠み、小林一茶は田園の暮らしを詠んだ。町人の間では、川柳や狂歌が流行った。草双紙という挿絵入りの本がはやり、十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』など滑稽本が好まれた。

歌川広重(Utagawa Kunisada / CC0)

 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などの読本もよく読まれた。また子供向けの「赤本」も好まれた。このような大衆文芸の広がりが貸本屋をはやらせ、19世紀の初めの江戸には 600軒以上の貸本屋があり、貧しくても本に親しむ時代が来ていた。
 また、今日の新聞にあたる瓦版もあらわれ、市中で起きた事件や天変地異を知らせた。人々はあくせくすることなく、落語や人形浄瑠璃、歌舞伎、相撲を楽しんだ。観光旅行をかねた伊勢詣でや四国八十八ヶ所巡礼がさかんになり、旅の道中で見聞した様々な情報が全国に広がるきっかけとなった。
 浮世絵は19世紀後半、ゴッホらフランス印象派の画家たちに大きな影響を与えた。庶民に人気の高かった浮世絵に対し、武士や教養のある町人に好まれたのは、丸山応挙らの文人画で、渋く静かな水墨画であった。
 絵画では、多色刷りの版画技術が発達し、浮世絵の黄金時代となった。中でも喜多川歌麿の美人画や東洲斎写楽の役者絵は庶民にうけた。葛飾北斎の『富嶽三十六景』など風景画や歌川広重の「東海道五十三次」など雄大な風景画で名をなした。


《補講》 町人が育てた大衆芸能―歌舞伎の大発展

出雲阿国 (Unknown author / Public domain)

 江戸時代の初期、京都の四条河原で出雲阿国(いずものおくに)のかぶき踊りが上演、人気をよんでいました。やがて阿国の踊りを真似た踊りを見せる芝居小屋がぞくぞくと生まれました。
 河川敷に建てられた屋根もない粗末なものでしたが、これが現代まで続く歌舞伎の基となりました。これが大阪の道頓堀、江戸の京橋河原でも流行るようになりました。町人たちは、活力あふれる踊りに魅せられ、芝居小屋は大繁盛しました。
 やがて歌舞伎は、市中の芝居小屋へ進出するまでになりました。歌舞伎は町人に支持され、幕府が取り締まりを強化しても、どんどん大きくなり、江戸、大阪、京都では、常設館まで出来ました。風紀の乱れを畏れた幕府は、女役も男優が演じることを条件に、上演を認めました。それが今日の歌舞伎の伝統となっています。
 歌舞伎が成功したのは、近松門左衛門や鶴見南北らの台本作家と歌舞伎の名優たちの創意工夫のたまものでした。江戸の演目には舞台を踏みとどろかす所作と大見得をきる荒事とよばれる芸があり、関西では和事といわれる人情話しをしっとりと演じお客の心を掴んだそうです。
 常設館には観客席も出来、花道、廻り舞台、引幕などの工夫がこらされました。人気役者は人々の憧れの的となり、役者絵が飛ぶように売れました。能楽は武士階級によって保護されましたが、歌舞伎は町人たちが幕府の取り締まりにも屈せず育てた大衆芸能だったのです。


《補講》 百万都市・江戸はエコロジーの町でした

大塩平八郎像(Kikuchi Yōsai / Public domain)

 18世紀の末ごろから、日本列島の海域に欧米諸国の船が出没するようになった。1800年ごろまでに目撃された外国船の数は10隻未満、1840年までの40年間で30 隻程度であった。1792年、ついで1804年にロシアが、幕府に通商を求めてきた。
 幕府は、鎖国を理由に拒否すると、樺太を襲撃した。1808年にはイギリスの船が長崎港に侵入し、日本人をおどろかせた。その後、1825年に、幕府は異国船打ち払い令を出した。
 1837年、天保の大飢饉で、多くの死者を出した大阪では、陽明学者大塩平八郎(1793―1837)が豪商を襲い、金品を強奪、貧しい人々に分け与えたが、暴動は一日で終わり、大塩は自害した(大塩平八郎の乱)。
 1841年、老中の水野忠邦(1794―1851)は、農村の再建と商業の抑制に取り組んだ。物価の高騰をさける為に株仲間の解散を命じ、倹約令を出した。歌舞伎や大衆向けの文芸を取り締まった。この急激な改革を天保の改革という。しかし武家や民衆の反発をかい、幕府の権威はいよいよ傾いた。

宗谷岬にある間宮林蔵の銅像

 1840年以降20年の間に外国船の日本への接近は盛んになり、88隻を数えた。欧米諸国の接近を感じて、『開国兵談』をあらわした林子平は海防論を展開した。水戸藩の相沢正志斎は結束して外国と戦う姿勢を示すように説いた。反対に、幕府の「異国船打払い令」を批判した高野長英は投獄され、渡邉崋山も幽閉された。
 一方、国防への関心が高まるととともに、日本周辺地域の探検も進んだ。間宮林蔵は幕府の命を受け、蝦夷地(北海道)から樺太にかけて踏査し、樺太が島であることを明らかにした。


《補講》 浮世絵とジャポニスム・フランスで花開いた江戸の文化

 浮世絵と日本ブーム――1878年、パリ万国博覧会が開かれました。そこで浮世絵が紹介されると、空前の日本ブームが巻き起こりました。
 印象派の画家たちは、浮世絵の明るい色彩や大胆な構図や線描に魅了され、熱心に模写しました。モネは自宅に池や太鼓橋を作り、水面の睡蓮や生い茂る草花を描きました。浮世絵の影響は、表面的な日本趣味や技法だけにとどまりません。
 印象派は観念的だった宗教画を否定し、人々の生活や自然の中に美を見出さそうとしました。ありのままの人間の姿を題材にした浮世絵が、大きな影響を与えたのです。このように、日本の芸術が西洋に与えた影響をジャポニスムと言います。
 ジャポニスムはその後も、ポスターやガラス工芸など、西洋美術の多様な分野におよびました。ゴッホは弟テオドールにあてた手紙にこう書いています。「印象派の画家たちはみな日本の絵を愛し、影響を受けている。私達はフランスの日本人だ」。
 ゴッホは、歌川広重の描いた「亀戸梅屋敷」を模写した梅の木の絵を遺しています。彼は本当に日本の浮世絵が好きになり、色々な点で影響を受けたのです。明治の日本人は、身近にある浮世絵の価値を知らず、輸出する陶磁器の包み紙として、海を渡ったものもありました。
 パリ画壇に強い衝撃を与えたのは、陶磁器よりもその包み紙だったのです。西洋美術を必死に学んでいた明治の日本人は、自国の伝統美術の価値を西洋人の目で再発見したのでした。

浮世絵とモネ作品の構図の類似例。左が広重、右下が北斎、右上はモネ

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