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知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(13)

第4章 近代の日本と世界(Ⅰ)

第1節 欧米諸国のアジア進出

市民革命と産業革命

 1688年、英国では名誉革命(市民革命ともいう)が起こり、17世紀後半より100年間政治と宗教の間で争いが続いた。国王と議会の間で話がつき無血革命が成功、イギリス王は亡命、新しくオランダから王を迎え、イギリスでは立憲君主制の議会政治となった。
 1776年、アメリカはイギリスより独立、独立宣言を出した。合衆国憲法が作られ、三権分立の国家が生まれた。
 1789年、フランスでは自由・平等をうたった人権宣言を発表した。近代国民国家が出来たが、王族は殺され、70万人の国民が殺された。これを市民革命と呼ぶ。
 18世紀後半、イギリスでは産業革命が起こり、綿糸、綿織物産業が栄えた。インドより綿を輸入し、綿糸や綿布を大量に輸出した。
 19世紀に入ると、蒸気機関を発明、フランス、ドイツ、アメリカも発展した。そして市民革命+産業革命で国力を増した白人国家が勢いを増し、アジア・アフリカ諸国を次々に植民地化していった。白人主義が世界を制覇していった。

欧米列強のアジア進出

 16世紀以降、当時の西欧によるアジアの植民地化が進んだ。イギリスはインド、ビルマ、ネパール、ブータン、セイロンを征服し、植民地化を進めた。
 イギリスはインドを完全に制圧し、インドで生産された綿をイギリスに運び、綿製品にしてインドに高く売りつけた。インドの綿産業は壊滅し、インド国民は叛乱をこころみたが、軍事力ではイギリスに勝てず、政治も経済も産業までイギリスに制圧された。
 フランスはインドシナ3国(ベトナム、ラオス、ミャンマー)をとり、スペインは南シナ海とフィリピン、オランダはインドネシアとチィモールを征服した。
 1840年、英国はインドで生産されたアヘンを清国に売りこみ、清国産のお茶をイギリスへ運び、イギリスからは綿製品をインドや清国に輸出し、莫大な利益をあげた。
 1840年から1842年まで、イギリスと清国の間でアヘン戦争がおこった。その戦争に負けた清国は、南京条約を結ばされ、多額の賠償金を取られた。
 その上、香港・上海・マカオを割譲させられ、更に不平等条約を結ばされ、結果的には欧州各国の半植民地の状態におかれるようになっていった。この情報は日本にもたらされ、大きな衝撃を与えた。

第2節 開国から明治維新へ

ペリーの来航と開国

 1853年、アメリカのペリー提督が4隻の巨大な軍艦(黒船)を率いて浦賀沖に来て、日本に開港を迫った。
 徳川幕府は、10年前のイギリス対清国の戦争の悲惨な結果を知っており、維新の志士たちも欧米諸国によるアジアの国々の征服、奴隷化を進めるあくどい植民地化の惨状を見聞していた。
 ペリー提督の1回目の日本訪問の目的は、捕鯨船への燃料と食糧の補給を受けるためであった。翌年1月、黒船7隻で再び浦賀に来て、徳川幕府に開国を迫った。
 同年5月、老中阿部正弘は開国を許し、日米和親条約を結び、下田と函館の二つの港を開港した。朝廷側は、それを不許可としたため、国論は攘夷派と開国派とに分かれ、朝廷側と幕府側との紛争の元となった。

尊王攘夷運動の展開

 1858年、幕府は朝廷の許可がないまま、アメリカと通商条約を締結した。そして五つの港を外国船に対して開いた。国内では一挙に攘夷運動が活発化し、日本国内が二分され、大騒動となった。
 1862年、薩摩藩内でイギリス人殺傷事件が起こり、1863 年薩英戦争が起こった。同じ年に、長州藩が5カ国の外国籍の船19 艘に砲撃を加えた(下関戦争)。幕府は攘夷運動を抑えるため長州藩をとがめ、出兵準備にはいった。
 それに反発して、尊王攘夷派の諸藩が行動を起こした。薩長土藩の下級武士団は、その経験から開国して西洋の文化を取り入れ、軍事力を強化しないと、西欧諸国に負け、植民地化されることを恐れた。

薩長同盟と王政復古

「大政奉還図」 邨田丹陵 筆(邨田丹陵, Tanryō Murata / Public domain)

 1863年、幕府側は攘夷派を朝廷より追放し、会津や薩摩藩らと新体制をつくり、長州征伐に向かった。薩摩藩は京都で勢力を広げ、長州藩は落ち目となったが、薩摩の西郷や大久保が実力で幕府に対抗するようになった。
 1866年、土佐藩の坂本龍馬が薩長の仲を取り持ち、「薩長同盟」を結成、統一国家構想を打ち出す。力を合わせた攘夷運動派が力を増し、錦の御旗を掲げた討伐軍が優勢となり、幕府を倒そうと立ち上った。
 同じ年、第14代将軍が死去し、徳川慶喜(1837-1913)が15代将軍となった。朝廷では、幕府に好意的であった孝明天皇が崩御され、14歳の明治天皇が即位された。
 翌1867年、将軍・慶喜は大政奉還(たいせいほうかん)を決断、朝廷派が益々勢いを増した。1868年幕府は崩壊、明治天皇の王政復古が実現した。
 当時活躍した歴史上の人物を列記する。
▼吉田松陰(1830-1859)29歳
▼坂本龍馬(1835-1867)32歳
▼高杉晋作(1839-1867)28歳
▼木戸孝允(桂小五郎 1833-1877)44歳
▼大久保利通(1830-1878)48歳
▼西郷隆盛(1827-1877)50歳

左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通(Unknown author (photo was made in London) / Public domain)


明治新政府

戊辰戦争中の薩摩藩の藩士(着色写真)。フェリーチェ・ベアト撮影(Felice Beato / Public domain)

 徳川幕府を倒さんとする討伐軍(官軍)と旧幕府軍との戦いは一年半にわたって日本各地・京都、東京、会津、函館で行われた。これらの戦いを戊辰戦争と総称する。
 戊辰戦争は新政府軍(公家+薩摩+長州を中心とした討伐軍)対幕府軍(徳川幕府+譜代大名)の戦いであった。
 京都の鳥羽伏見の戦いは、西郷率いる新政府軍は錦の御旗を掲げ、天皇の軍隊として幕府軍を圧倒した。ついで江戸(今の東京)での上野戦争は、江戸城の無血開城の後、旧幕臣が上野の山に立てこもり政府軍に抵抗した。次いで会津で行われた会津戦争は、旧幕府軍の会津藩が地元に帰り、幕府軍最後の抵抗を試みた。
 さらに幕府の水軍が、北海道の函館に逃げた上、五稜郭に陣を張り、旧幕府水軍が立て籠もった戦争となった。
 しかし、旧幕府軍の抵抗はこれで最後となった。この一年半に及ぶ内戦を戊辰戦争(ぼしんせんそう)という。幕末から明治時代にかけて行われた一連の改革を明治維新と呼ぶ。
 新政府軍は旧勢力を一掃し、幕末から明治にかけて明治維新を実現した。明治新政府は、近代国家の建設に着手した。
 1868年3月、明治天皇は公家・諸侯らと共に、「5箇条の御誓文」を作り、神に誓約するという形で新政府の出発とした。
 これが西洋文明を取り入れ、近代的な立憲国家を発展させる基礎となった。
 同年9月、元号を「明治」と改元し、江戸は「東京」と改称され、新首都となった。天皇は翌年、京都御所より東京の皇居(旧江戸城)へと移られた。


《資料》5箇条の御誓文

①広く会議を興し 万事公論に決すべし
②上下心を一にして 盛んに経綸を行うべし
③官武一途庶民に至るまで各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
④旧来の陋習を破り 天地の公道に基くべし
⑤知識を世界に求め 大いに皇基を振起すべし
 この御誓文は、明治天皇が明治元年(1868年3月14日)に神前に誓った維新政府の国是。由利公正が起草し、木戸孝允と福岡孝弟が修正を加えたもので、のちに立憲思想の源をなすものと言われた。


廃藩置県と四民平等

 版籍奉還―1869年になって、明治維新を進めた薩摩、長州、土佐、肥前(佐賀・長崎県)の4藩の藩主が天皇に対して領地、領民の返還を願い出た。
 それで、他の藩主たちもそれに見習い領地、領民を天皇に返した。これを版籍奉還という。
 藩主はもとのままで、軍事と徴税は実質的に各藩に残された。
 1871年、太政官制を改組して閣議制となり、太政大臣、右大臣、参議からなる閣議が指導力を発揮できるようになった。
 これが今の内閣制の元となった。新政府直属の軍隊を創設し、薩長土の武士1万人を御親兵(天皇親衛隊)とした。皇居に元藩主を呼び、天皇の名で廃藩置県を宣した。
 これによる混乱はなく、新政府は、はじめて安定した姿となった。藩主に代わる「県令」(後の県知事)が新政府より派遣された。このようにして中央集権国家の骨格が出来上がり、軍事と政治全体の権限を新政府が握った。当時の人口は3313万人。皇族華族が0・01%、僧侶0・9%、士族5・49%、平民93・5%であった。
 今までの制度を廃止し、華族(藩主と公家)を除き四民平等の思想のもと全員が平民という身分になった。
 平民には苗字を与え、職業選択の自由、結婚、住居・旅行の自由を保障した。
 1871年には3府 302県が半年後には3府72県に統合され、1888年にはほぼ現在の区分に整った。

学制・兵制・税制の3 大改革

 1872年、近代国家建設の基盤は、就学、兵役、納税の3つにありとして、国民の義務を明示し、それに対する政府の方針を明らかにした。
 学制は、全ての国民は教育を受け、国家発展のため各人が自立することが大切であるとした。
 1867年に全国に約15000あった寺子屋は、10年後には学校制に組み込まれ、その時点で学校の数は 26000校となっていた。
 識字率は1873年で30%であったが、1883年で50%、1893年で60%、1900年には80% に達し、1903年には93%、1912年にはほぼ100%となった。
 1873年に徴兵令が公布され、全国6カ所に陸軍の師団がつくられた。国民皆兵制度で、男子は20才になると徴兵されることになった。武士の特権を平民へ渡したことになるが、平民には人手をとられると不評であった。
 1871年、地租の改正も行われた。農民は田畑に何を植えてもよいとし、土地の売買も認めると宣言した。更に政府は、全国の地価を定め、土地所有者を確定して、彼らに地券を公布した。
 1873年には、地租として地価の3・0%を貨幣で納める制度が発表された。これで政府が全国一律に税を徴収するシステムが出来、安定した歳入を政府にもたらした。我が国は近代国家として歩んでいくための財政基盤を固めることができた。

 

 

 

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