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特別寄稿=太平洋戦争下の日本・沖縄県人移民の苦難―――サントス事件を中心に=バルガス独裁政権と枢軸国移民迫害=ブラジル沖縄県人移民研究塾代表  宮城あきら=《1》

『オキナワ サントス』(松林要樹監督)公開予定:▼7月31日(土)より【沖縄】 桜坂劇場にて先行上映▼8月7日(土)より【東京】シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開(https://okinawa-santos.jp/)

宮城あきらさん

 ドキュメンタリー映画監督松林要樹氏の最新作『オキナワ サントス』が31日から日本で上映開始される。1943年8月に沖縄移民を中心とした日本移民6500人が「敵性移民」としてサントス港湾部から24時間以内に強制退去させられたタブー的事件を描いたドキュメンタリーだ。その事件の背景を、ブラジル沖縄県人移民研究塾の宮城あきら代表が詳しく説明した論文を、本人の許可を得て、以下、ブラジル沖縄県人移民研究塾『群星』6―7合併号より4回に分けて転載する。(編集部)

 1941年12月8日、連合艦隊によるハワイ真珠湾奇襲攻撃を合図に日本は、太平洋戦争に突入した。この開戦によってブラジルへの日本移民は、同年8月13日の417名の移住者を乗せてサントスに入港した「ぶえのすあいれす丸」を最後に途絶した。笠戸丸から33年、営々と続けられてきたブラジル日本移民は、ここに終止符を打つことになった。
 そして、日本の敗北とサンフランシスコ講和条約の調印・発効を経て、1953年に戦後移民の第一陣がアマゾンに入植するまで、移民の再開はなかった。この12年間は普通、「移民の空白期」と呼ばれている。
 この移民空白期の在伯日本・沖縄県人移民たちは、太平洋戦争の直接的戦火に巻き込まれたわけではないが、「敵性国民」としてかつてない困難に直面し、塗炭の苦しみを強いられたのであった。しかも、日本が太平洋戦争に敗北した戦後において、その勝敗をめぐって、邦人同士が真っ二つに分かれて相打つ抗争に直面した。
 「日本戦勝」を叫び「神国日本」を信奉する「信念派」=臣道連盟およびその同調者が、「敗戦認識派」の人々を「国賊」として抹殺する流血の騒乱に、日系人社会は覆われたのであった。この悲劇的惨事が移民に与えた社会的・精神的打撃と損失は、はかりしれないものがあった。
 日本の敗戦という冷厳な現実に直面していながらも、「日本戦勝」を信じて疑わなかった圧倒的多数のブラジル日本移民は、この抗争によって「日本敗戦」の現実に覚醒する契機を摘み取られ、盲信と迷妄の日々を余儀なくされた。そして各地の日本移民開拓地は、対立と抗争の中で荒廃し、人々の心は、疑心暗鬼で揺れ動いた。
 沖縄県人移民たちもまた郷土沖縄が地上戦の戦火で灰燼と化されているにもかかわらず、「勝ち・負け」抗争の騒乱に巻き込まれていたのである。
 邦字新聞が再刊され、日本の国情に関する真実の情報が伝えられ始めるにつれ、「日本戦勝」の虚言と妄言はようやく姿を消していった。けれども対立と抗争のツメ跡は、あまりにも深く、この混乱に乗じて人々を食い物にする詐欺師が横行し、余震はなおも続いた。
 本稿は、沖縄県人移民90周年記念事業『ブラジル沖縄県人移民史―笠戸丸から90年』第1部第7章「移民の空白期」を全面的に改稿し、その前半期、いわゆる戦時下の日本・沖縄県人移民の苦難に焦点をおいて書き
直したものである。
 それは、2016年8月にドキュメンタリー映画監督松林要樹氏によって偶然発見された『強制立ち退き時のサントス在住日本人名簿とその立ち退き先き』、この埋もれた歴史的資料を検討し、そこに記録されている生存者並びにその子弟家族を訪ね歩いて取材した証言によって明かにされているサントス強制立ち退き事件の重大性に改めて気づかされ、この事件のもつ歴史的意味の再検討を強く迫られたことに基づいている。
 しかし、事件発生から77年が過ぎた今日においてもサントス事件は、ブラジル日本人移民史・沖縄県人移民史においてほとんど解明されることなく、歴史に埋もれたままに放置されている。私たちは、そのことの自覚と反省を痛烈に迫られている。
 本稿は、1943年7月8日のサントス事件を「戦時下の日本・沖縄県人移民の苦難」として歴史構成の中に位置づけ直し、その歴史的意味と本質を改めて問い直すことを試みたものである。

【1】国交断絶―「敵性国民」としての苦難

(1)バルガス政権による日本移民の排斥

バルガス大統領(Governo do Brasil, Public domain, via Wikimedia Commons)

 1939年9月1日、ナチス・ドイツはポーランドへの侵攻を開始し、同月3日英国政府は対独宣戦布告を発布した。戦線は、世界戦争へと拡大する様相を呈しはじめ、移民たちをめぐる情勢、一段と緊迫しはじめていた。
 ブラジルのバルガス政権は、これまでの中立の立場を連合国側に転じ、とくにアメリカ政府への協力体制をとり、三国枢軸同盟非難を強めた。
 外国語の新聞・雑誌は、記事検閲制から、社説その他主要記事のブラジル語訳添付、ついでブラジル語欄併設の強制へと進んだ。日本語新聞が連合国側の不利を伝える記事、日本の対外政策や国内事情、日支事変の報道に関する記事などは逐一検閲・規制を受けねばならなかった。
 すでに1938年8月に、新「移民制限法」(1934年制定)が実施され、14歳未満の児童にたいする外国語教育禁止、初等教育教師のブラジル人への限定などの細目が公布された。ついで同年12月25日に、ブラジル全土の外国語学校の閉鎖が命じられていた。ちなみにその時サンパウロ州にあった日本学校は294校、全国では476校もあったが、それらすべてが閉鎖に追い込まれた。
 日本語学校の閉鎖命令に日本移民たちは強い屈辱感をもち、ブラジル政府による不当な圧迫を強くその身に刻んだ。彼らは開拓地内の人目に付かない藪陰や森の中に掘立ての臨時教室をつくって、ひそかに子弟への日本語教育を続けた。日本語禁止の中での教育は、かえって「日本は万世一系の天皇と3千年無敗の神国である」という国家意識、そして「皇軍意識」とか「大和魂」とかの「日本精神」を子弟に注ぎこむ「信念」を強めるものとなった。

1936年、リオで。バルガス大統領(左)とルーズベルト米大統領(Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 それは、日本がファシズムへと突き進んだ1930年代以降の軍国主義教育そのものであったが、異郷で孤立し、迫害を受けている移民たちの心をよりその方向へとかりたてた。この「日本精神」を子弟に教育することが、彼ら日本移民の心の支えであった。
 1940年1月外国人登録制度が施行され、移民たちは、「鑑識手帳」を取得しなければ如何なる権利も保証されず、土地を離れて旅行するにも許可証を必要とした。日本移民をとりまく状況は、日に日に重苦しさを増していた。キンタ・コルーナ(第5列=スパイ)という罵声をあびせられたのもこの頃からであり、日本移民は「敵性国民」としての屈辱を身に沁みて実感せずにはおれなかった。
 1941年8月、ついに外国語新聞は発行禁止となった。約4半世紀に及ぶ活動を続けてきた聖州新報、伯剌西爾時報や日本新聞、南米新報などすべての日本語新聞は、日米戦争開戦前夜にその幕を閉じた。報道機関を奪われた移民たちは、自分たちの国・日本の動勢を知ることが出来ず、いらだちと不安をつのらせていた。
 こうして日本移民たちは、子弟が日本語を学ぶ自由、日本語による言論出版・集会の自由、移動の自由を奪われ、抑圧された重苦しい生活を余儀なくされたのである。

【2】太平洋戦争の勃発と国交断絶下の弾圧

1941年12月8日、連合艦隊によるハワイ真珠湾奇襲攻撃(Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 1941年12月8日、日本連合艦隊は真珠湾攻撃を奇襲攻撃し、太平洋戦争が勃発した。
 緒戦の勝利は、情報手段を失っていた邦人社会にもいち早く口から口へと伝えられた。そしてマレー海戦、香港占領、シンガポール攻略、マニラ入城など相次ぐ勝利は、移民たちを覆っていた重苦しい雰囲気を一挙に吹き飛ばし、彼らの鬱屈した気分を解放した。バルガス政府の迫害の中にあって、彼らはもろ手をあげて公然と「バンザイ」を叫ぶにはいかなかったが、「絶対不敗の皇軍」に胸を踊らせた。誰しもが皇軍の緒戦の連勝に酔いしれていた。
 しかし、年が明けて1942年1月15日、リオ・デ・ジャネイロで開催された汎米外相会議において、アルゼンチンとチリを除いてブラジルなど10カ国が対枢軸国経済断交を決定した。これに対して同月28日、日本政府は、在リオ帝国大使館および在サンパウロ総領事館等、在外公館を閉鎖した。同29日、ブラジル政府は、枢軸国との国交断絶を宣言した。こうして日本移民たちは、祖国日本との公的つながりを完全に絶たれたのである。「敵性国民」としての取り締まりは、一段と強化された。

全伯に広がった弾圧と排日運動

 1942年1月19日、サンパウロ州保安局は、つぎの取り締まり令を告示した。ブラジル政府の日・独・伊との国交断絶に当り、本州移住当該国民に対し、以下の事項を禁止する。
〈1〉如何なる者も当該国々語にて記されたものを頒布すること。
〈2〉当該国の歌を唱し、あるいは演奏すること。
〈3〉当該国独特の敬礼をなすこと。
〈4〉多数集合の場あるいは公衆の場において、当該国々語を使用すること。
〈5〉当該国政府要人の肖像を人の集まる所、あるいは公衆に展示すること。
〈6〉保安局より発給の通行許可証なくして、一地域から他地域に移動すること。
〈7〉自宅内といえども、私的祝祭の名義をもって集合すること。
〈8〉公衆の場において国際時局に関し、討論あるいは意見の交換をすること。
〈9〉保安官に予告なくして転居すること。
(以下省略)
 この取締令が公布されてから数日後の2月2日、サンパウロ市内のコンデ・デ・サルゼーダス街界隈の日本人にたいして、立退き命令が発せられた。つづいて同月11日に適性国資産凍結命令がだされた。移民たちの経済活動は大きく制約され、産業組合や会社などへの政府の干渉が強められた。
 旅行者は極端に減少したが、スパイ容疑で連行された人もいた。路上で知人と日本語で挨拶を交わしただけで拘束された人々もいた。屋比久孟清は、ブラジル人の密告によって、警察署長指揮下の家宅捜査をうけた。そして日本語書物・雑誌類を始め柳行李まで持ち去られたうえに独房に放り込まれた。嘉手川詠興、垣花輝景らも一緒であった。
 秘かに日本語学校を継続していた全伯の日本人開拓地に銃で武装した官憲が踏み込み、日本語教科書・本や諸資料を持ち去り、これを証拠に教師や指導者を拘束・連行した。それは、南マットグロッソ州カンポ・グランデ市の沖縄県人開拓地セローラの日本語学校に機関銃で武装した官憲によって開拓地指導者や学校関係者を強制逮捕した事件に如実にしめされている(同42年3月17日)。同年8月20日には沖縄県人指導者大城幸喜も狂乱化した学生集団の夜襲を受け、住宅を焼き討ちされ全財産を失った。大本営発表を妄信し、ブラジル国家を「敵性国家」として非難したことへのブラジル人の反発によってもたらされた事件であった。
 また8月に入って、パラナ州のパラナグァ、アントニーナ一帯に住む日本人とドイツ人移民30数家族が、反枢軸国のブラジル人に襲撃され、家財道具一切を略奪されたばかりか、婦女子が凌辱される事件も発生した。さらにミナス州の首都ベーロ・オリゾンテ郊外の日本人菜園においても略奪がなされ、住居を焼き討ちにされる事件も起きた。
 同じころ、アマゾン河の河口に近い「アカラ植民地」にも武装州兵が各家屋に上がり込み、日本語書籍などの出版物を持ち去った。学生を中心とした排日化したブラジル人たちは、日本人住宅に押し入り狼藉を働いた上に放火し焼き払った。燃え広がった排日の騒乱は、バルガス政府の弾圧に乗じて全国に拡大していった。
 同年9月6日、サンパウロ市内のコンデ・デ・サルゼーダス街界隈の日本人に対して、10日間の期限付きで二度目の立退き命令が発せられた。日本移民の市内最大の集団地を形成していたコンデ街には、もはや日本人の姿はほとんどみられなくなった。バルガス政府は、コンデ街で何が起きるかわからない、という思惑から日本人を市の中心地から離散させ分断するために、第2次立ち退き命令を発令したのである。
 それに先だって同年7月6日、国外退去を命じられた大使、総領事ら日本政府代表らすべての館員は、帰朝命令に従ってスウェーデンの交換船「グリップスホルム号」で引き上げた。この総引き揚げは、日本移民たちに「取り残された思い」を強く印象づけた。彼らの心の底に秘められていた「棄民」意識が、この事態によって顕在化するとともに、孤立無援の精神的不安感を一層深めさせたのである。(つづく)


『群星』読者へのご協力・ご支援願い=ブラジル沖縄県人移民研究塾(代表宮城あきら)

『群星』6―7合併号

 皆さん待望の『群星』第6=7合併号は7月30日にようやく発刊に漕ぎつけ、皆様のお手元にお届けできるようになりました。当初は昨年9月に第6号の発刊を企画し準備しておりましたが、コロナ禍蔓延の社会事情の中で発刊計画を全面的に練り直し6号と第7号を合併して304頁の特大号として、今日ここに上梓することができたのであります。
 しかし、深刻化し長期化しているコロナ禍は、感染・死亡者を増々増大させているばかりでなく、人々の社会経済活動に深刻な打撃を与え、事業の倒産・閉鎖・失業者を著しく増加させています。このような中にあって、『群星』発刊のための資金調達もまた厳しい事態に直面しております。
 この間私たち移民研究塾は、同人誌としての『群星』を自力で発刊して読者の皆様に愛読して頂くことを旨としつつ皆様の自発的協力を賜って参りました。しかし、上記のようなコロナ禍の社会的困難に直面するに至り、同様の厳しさの中にある読者の皆様に『群星』発刊資金へのご協力を仰ぐ事態となり、ここにご支援をお願い致す次第であります。
 つきましては、読者の皆様のご芳志を何卒よろしくお願い致します。
 『群星』専用の銀行口座は以下の通りです。
口座番号 BANCO 033 AGENCA 1790 CONTA 01-003020-1 NOME MINAKO MIYAGI

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