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《記者コラム》アルプスの少女ハイジと民族テロ=『灼熱』で描かれる通低した病

郷愁という病を抱えた日本移民

ミステリー小説『灼熱』(葉真中顕著、新潮社)

 終戦直後にブラジル日系社会で起きた勝ち負け抗争勃発から、今年で75年になる。そんな節目にその抗争をテーマにしたミステリー小説『灼熱』(葉真中顕著、新潮社)が、日本の気鋭ミステリー作家によって刊行されたことは意味深い。
 しかもフェイクニュース拡散と社会の分断を描くという現代的な視点から、大戦終了をキッカケに日本戦勝を信じる「勝ち組(信念派)」と「負け組(認識派)」に二分して民族テロ、内ゲバ状態になり、20人余りの犠牲を出すという未曾有の事態が起きたことをテーマに、そこに駆り立てた〝熱〟の正体と、それが生まれた心理をリアルに描きこんだ。
 この勝ち負け抗争が起きた裏には、当時の日本移民はほぼ全員、帰りたいのに20年も30年も祖国帰れない「極度のホームシック」(懐郷病)という病を抱えていたという背景がある。
 当時の移民心理を一言でいれば、「5年で大金を貯めて帰る」とデカセギ気分で地球の反対側までやって来て、貯まらないまま気がついたら10年、15年以上も経った挙げ句に戦争開始。もし日本が負ければ、米軍占領で「祖国喪失」という瀬戸際の心理だった。ホームシックの人間にとって「祖国喪失」に勝る恐怖はない。
 多くの人は誤解しているが「ホームシック」というのは本当に辛い精神疾患だ。移動が簡単で、国際通話も安価になった今、ホームシックは単なる「故郷を懐かしむ感情反応」程度に思っている人が多いと思う。だが移民にとって「郷愁」は癒やしがたい病だった。
 ブラジル移民史に詳しい文化人類学者の前山隆は、それを「日本人がうどんを食べるのは食欲の問題だが、移民にとっては郷愁の問題だ」と喝破した。普段はコーヒー耕地などで働いている移民が、たまにサンパウロの日本人街に来て故郷のチャンバラ映画を見て、うどんをすするとき、それは映画を見に来ているのではなく、耐えがたい郷愁を癒やすために疑似帰国体験をしに来ていたのだ。

劇場版『アルプスの少女ハイジ』(高畑勲総監督、DVD)

 スイスのニュースや情報を発信するスイス放送協会のウェブサイトの記事によれば、ホームシックは「スイス人の国民病」(https://www.swissinfo.ch/jpn/心の病_スイス人の国民病-ホームシック-/45303096)だという。
 病気として命名された1688年当時、故郷から遠く離れた外国の地で戦うスイス人傭兵だけがかかる病気とされ、《症状は発熱、不整脈、衰弱、胃痛、うつ。場合によっては死に至ることもある》と書かれている。
 50代以上の人ならアニメ「アルプスの少女ハイジ」を見た覚えがある人が多いだろう。あれはホームシックをテーマにした作品だ。前出記事にも《アルプスで健康・幸せに暮らしていた少女は、遠い都会の地に送り出されると病に陥った。郷愁、悲しみ、幻覚、夢遊病などホームシックの典型的な症状が出たハイジを癒す唯一の方法は、ただちに山の上の家に帰ることだった》と書かれている。

帰国を熱望しながら帰れない現実

 ブラジル日本人移民の場合、「5年でお金を貯めて錦旗帰郷できる」とデカセギ気分を煽られて地球の反対側に連れてこられたが、移民会社が宣伝していた「金のなる木」があるはずもなく、大半が帰れなかった。
 それを裏付ける数字がある。1939年に刊行された現勢調査報告書『バウルー管内の邦人』(輪湖俊午郎編)の巻頭で、在留邦人の85%が「帰国」する意向だと答えたことだ。
 だが『移民80年史』には悲しい現実を示す別の統計が載せられている。1819年から1933年末までにブラジル入国した外国移民は462万3789人もいるが、うち53%は別の国に再移住、もしくは帰国したというのだ。
 ドイツ移民でブラジルに定着したのはわずか24・49%、ポルトガル移民ですら41・99%しか定着しなかった。〝渡り鳥移民〟イタリア移民にいたってはわずか12・82%だった。
 ところが日本移民は93・21%が残った。欧州移民と違って移住慣れしておらず、日本に帰る金が貯まらないうちに戦争が始まった。
 つまり、戦前20万人いた在留邦人のうち85%が帰国したかったのに、帰れたのはわずか7%・・・。78%は敗戦で帰れなくなった。この人たちの大半が「勝ち組」になったと想像される。帰国を熱望しながら帰れない――この厳しい現実が引き起こした社会不適応の集団精神病が勝ち負け抗争の背景にあったと思う。
 勝ち負け抗争を扱ったNHKドキュメンタリー『遠い祖国』(2014年8月放送)の中で、勝ち組団体「臣道聯盟」の幹部だった渡真利成一の次男澄男が、父のことをこう回想している。
 「父はいつも日本から迎えの船が来て『ブラジルに日本人全員を連れて帰ってくれる』と言っていました。現実は全く違っていましたけどね。両親の夢は日本に帰ることだったんです」「そして最後には『空飛ぶ円盤にのって、宇宙人が迎えに来る』なんていって、頭がおかしくなっていた。かわいそうですよね。父は生まれ故郷の宮古島の美しい海岸を夢見ていました。でもその夢は実現しませんでした」と語っている。
 渡真利成一的なキャラクターが『灼熱』にも登場する。このミステリーを読みながら、当時の渡真利はこんなことを言っていたに違いないとうなずきながら読んだ。
 勝ち組の悲願は常に「日本帰国」だった。その最後が1955年に桜組挺身隊が起こした帰国請願デモ行動だ。渡真利はその指導者のひとりでもある。彼は20年以上にわたり帰国運動をしたが、84年に当地で亡くなった。
 だが戦後も長い間、学術界も日本政府もホームシックを精神疾患としてとらえていなかった。
 1980年にNHKブックスから刊行された『日本人の海外不適応』(稲村博著)には、以下の記述がある。《著者は過去十数年の間に、世界の各地を訪れる機会を持ったが、どこへ行っても不適応現象に苦しむ邦人に出会わざるを得なかった。(中略)不適応現象に陥っている人のいかに多いかに驚かされた》(3頁)。
 つまり、1980年頃にようやくこの程度の認識が専門家の間に生まれた。ならば戦前、海外での精神障害症候群への理解、社会心理学的な視線は皆無であった。
 戦後移民5万人いるが、半分以上は帰国したと見られている。戦前移民と違っていつでも帰れたし、日本政府も国援法による帰国費用の貸し付けを始めたからだ。だが大戦当時、約20万人いた同胞社会の8割が、帰国を熱望しながら叶えられず、切なすぎる懐郷病を心の内に抱えた。

戦中の移民の心をくじいた交換船という絶望

グリップスホルム号(Bain News Service, publisher, Public domain, via Wikimedia Commons)

 しかも戦前移民の特徴は強い愛国心を持っていたことだった。明治後半に人格形成をされた世代が家長となってブラジルに渡っていたからだ。
 日清・日露戦争で呼び起こされた強い愛国心をもった人物が、ヴァルガス独裁政権によって邦字紙が強制廃刊されて圧倒的な情報不足になって大戦中に不安感が高まり、連合国側のブラジルで敵性国民として民族弾圧を受けて強烈なストレスがたまっていた。
 もしも敗戦を認めたら、移民にとって「祖国消滅」「帰れる場所がなくなる」ということを意味した。「負けてはならない」「負けるはずがない」と考えることは、精神のバランスをとる上で、必要なことだった。今風の言葉で言えば「遠隔地ナショナリズム」の一種だろう。
 その中でも、移民大衆の心をくじいたのは、頼りにしていた日本国外交官たちの一斉退去だった。なんの公式な伝達もなく、忽然と外交官たちはいなくなった。その様子は『灼熱』の中でも描かれている通りだ。
 大戦中、欧米にいた日本人外交官や駐在員などと、日本にいた欧米人を捕虜交換した船「グリップスホルム号」が出た。この交換船ほど、当時の日本移民の心情に深い絶望を刻んだ存在はなかったと思う。
 42年1月にブラジルが枢軸国に対して国交断絶をしたことを受けて、連合国側と枢軸国側で、双方の外交官や在留民を自国に戻す交換船を出すことになり、42年7月にリオに寄港した。
 交換船が来ること自体、一般の在留邦人には知らされていなかった。外交官が帰国する際、挨拶も一切なく、移民は蚊帳の外に置かれていた。
 『香山六郎回想録』(香山六郎口述、1976年、サンパウロ人文科学研究所、以下『回想録』)PDF版735ページには、こうある。
 《私達は駐伯日本外交官の吾々に対してサヨナラも告げずにかくれるように逃げていくような態度に彼等の民族的、否人間的教養の浅はかさをしみじみと感じていた。吾々移植民に永住せよなんておすすめなさる外交官連中が敵性国人となれば一番に尻に帆かけてにげ出すお偉方なんだ。日本外交官頼むにたらずーと痛感した》
 このとき、交換船に乗れたのは、外交官と企業関係者のみ。戦中のこのような経緯から「我々は棄民である」という確信が生まれた。

移民34人を乗せる話が突然浮上

石射猪太郎大使

 この日米交換船はアメリカのニューヨークを1942年6月18日に出港し、7月2日にリオに入港した。日本への帰還者総数は1466人(1468人との説も)。
 ウィキペディア「交換船」によれば、帰国人数が限られていたために、外交官や企業駐在員、研究者や留学生として一時的に駐在していた人の帰国を優先し、以前より現地国に移民として渡っていた者がこの機会に便乗して帰国することを防ごうとしたとある。
 だが、ここに日本人移民を載せる話もあった。日米両国側とも交換人員は1500人という取り決めだったにも関わらず、日本側は前述のように1466人。あと34人の空きがあったからだ。
 『交換船』(鶴見俊輔、加藤典洋、黒川創、新潮社、2006年)には、その時のことがこう書かれている。
 《ブラジル政府および駐ブラジル米国大使館は、リオ・デ・ジャネイロでグリップスホルム号に三八三名の日本人帰還者が乗り込んだのち、なお三四名分の余裕があるので、さらにこの数だけの日本人を追加して乗船させるよう、ブラジル駐在の石射猪太郎大使に対して主張した。ところが、石射大使は、東京(外務省本省)から許可があった者以外を乗船させることはできないとして、これを「断固拒絶」したというのだった(七月一四日午後付、駐スペイン須磨公使から東郷外務大臣への電信)》(328~329頁)
 つまり「34人分の余裕」があり、そこに移民を乗せられたのに石射大使が断固拒絶した。ここに悲劇が生まれた。
 当時、聖市では警察に拘留された日本移民を世話するために1942年6月、渡辺トミ・マルガリーダ女史を代表する「サンパウロ日本人カトリック救済会」が発足していた。『コロニア五十年の歩み』(パ紙、1958年、以後『歩み』)によれば、同会の主要メンバーの一人、石原桂造さん(トキワ旅館経営)は7月初めごろ、驚くべき話を収容所のメンバーにもってきた。
 《日伯の国交断絶以後、日本人の権益を代表しているスペイン総領事館の発表によれば、監禁中の日本人で、帰国を希望する者は、四、五十名だけだが、近くリオへ寄港する交換船で帰れることになった》(148ページ)というのだ。
 ブラジル駐在が長く移民の心情を熟知した早尾季鷹(すえたか)書記官は、交換船に空きがあると聞いて「それなら在留民を乗せてあげよう」と救済会に斡旋を頼んだようだ。
 収容所には取り調べもないまま数カ月に及ぶ監禁生活を送らされ、《ブラジルのような日本の主権の及ばない国で日本人は生活すべきでない》と考えるようになっていた者は多かった。その結果、「わずか2日で財産を始末して家族を連れてリオへ出発できるもの」という条件にも関わらず、収容所から17人が帰国を希望した。加えて、家財をたたき売った一般在留民23人が帰国希望者として集まり、リオへ向かった。

家財売って交換船乗ったのに大使から「降りろ」

 42年7月2日、《船に乗ったサンパウロ組は手を取って帰国を祝い合った。何カ月かの監禁生活を送った者ばかりだけに、解放された喜びは一しおだった》(『歩み』148ページ)。いったん船に乗って「夢にまで見た帰国がようやく叶う」と家族ともども心から喜んだ。
 《ところが、こうした喜びも束の間、みな下船を命ぜられたのである。命令したのは大使石射猪太郎だった》(『歩み』、148ページ)
 帰国希望組がどれだけ落胆したか――想像を絶するものがある。
 《早尾は立場に窮したものの「みな帰国を望んで、家まで売り払って来ている。たとえ名目は国外追放となっていても、本人の希望を叶えさせてやるべきではないか」との意見を出したが、大使はぜんぜん容れなかった。早尾はたまりかね、「それでは四十数人の今後について責任を負いますか」と詰め寄ったが、石射大使はどうしても首をたてにふらなかった。こうなっては、四十余人は下船する意外になかった》(前同)
 この文章の見出しは「無残、石射大使の乗船拒否にあう」。パウリスタ新聞が同情するヒドイ仕打ちだった。
 祖国に戻ることを熱望しながら20年も30年も耐えた時の心境が、想像できるだろうか。しかも帰国船の甲板まで上がったのに降ろされた・・・。
 最初からムリだと諦めていればまだしも、いったん帰国できると希望を持った後の絶望はより深かったに違いない。
 この件は石射氏の自伝『外交官の一生』には一行も触れられていない。
 『灼熱』の中でも、終戦直後に帰国船が日本から迎えに来るというデマ情報に躍らされる人々の姿が描かれている。郷愁病を抱えた人たちが「帰国船」という言葉を聞いたとき、いてもたってもいられなくなったことは想像に難くない。
 思えば現在、自分の国に住んでいながらSNSのフェイスニュースなどによって国を二分する騒ぎが起きている。これが、自分の国に住んでいなかったら、もっと残酷なことになるのは日の目を見るより明らかだ。
    ☆
「ハイジ」は都会フランクフルトで夢遊病患者になり、医者の診断でアルムの山に帰ることが許され、元気を取り戻した。1881年に出版された本だから、スイスではすでに懐郷病への対処は一般的だった。だが日本移民には戦後ですらも、そのような診断を下す人はいなかった。ひたすら懐郷病に耐えるだけだった。
 その切ない心理が『灼熱』では実にリアルに描かれている。戦前戦中まで植民地で日本人同士仲良く助け合ってきたはずの人々を、過激な抗争へと駆り立てた〝熱〟の正体とはなんなのか。ぜひ日本から取り寄せて読んでほしい。(敬称略、深)

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