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50年ぶりの祖国で〝浦島太郎〟(11)=聖市 広橋勝造=太平洋のド真ん中に一人の恐怖

ハワイのノースショアでのサーフィン(Stan Shebs, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

ハワイのノースショアでのサーフィン(Stan Shebs, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 高校時代、良く玄界灘を泳いでいた。高校の運動場の先が海岸だったからだ。泳いだと言っても水泳は得意ではない。俺は浮かんでいる程度だ。
 暑い日などは昼休みに15分くらい、20メートル程度沖に出て、涼を取ってから走って教室に戻った。間に合わず下着を着けずに制服だけを着けるのはよくあった。
 高校卒業後、東京に就職した。当時、九州からの集団就職は珍しく、殆どは広島、神戸、大阪、遠くて名古屋だった。
 東北から来た奴等と、夏には社員旅行で千葉や伊豆半島の海水浴場に出かけた。最初に行った海水浴場(多分、鎌倉あたりじゃなかったか)で初めて太平洋に浸かった。
 海水パンツなんか着た事がなかった(持っていなかった)俺は、ヘコ(ふんどし)を巻き付けて打ち寄せる太平洋の波に頭から突っ込んだ。見た目は穏やかな大きな波だが、俺を軽々と持ち上げた。それから俺の体は海岸に打ち上げられ、芋の皮をはぎ取るように上下ゴロゴロと回され、しっかりと結んでいたヘコが波にさらわれた。
 それからパニックになって、その後どうなったか記憶にない。
 この太平洋の大きな波にもう一度挑戦した。それはブラジル移民の時だ、移民船「あるぜんちな丸」は途中ハワイの真珠湾が一望できる岸壁に3日間停泊した。
 到着したその日の午後(3時頃だったかな)、同船者の同年代の若者達(25~30歳位)とワイキキの浜辺に繰り出した。
 よっしゃー! ハワイと云えばあのサーフィンだ。俺はウキウキして挑戦することにした。映画で見た事があったからどうにかなるだろうと思って、サーフボードを20ドル程度だったか覚えてないが一時間借りた。
 半ズボンにアロハ・シャツ姿でサーフボードを片手に颯爽と浜辺を歩き、サーファーがチラホラ見える所でボートに寝そべって太平洋に漕ぎ出した。
 「よし! 見てろよ」。何人かのサーファーはボートに跨り、うねる波に揺られて夕暮れかなんかを待っている様だった。それから何分間か、あの映画で見た波を求めて沖に漕ぎ出した。
 我に返って、今日はあの波がない様だと判断し始め、ふと後ろを見ると、「あるはずのオワフ島が無い!」
 大きな静かにうねる波は水面ギリギリにいる俺の視界を遮っていた。俺は急に鳥肌が立って恐怖に陥り、まるで太平洋のド真ん中に一人取り残されたと思った。
 それからが大変、戻らなくてはならない、大海原で波の中に一瞬小さく見える島に向かって一生懸命漕ぎ始めた。
 暫く(実際はただの5、6分だと思う)漕ぎ続けた。「あっ!」人の声が聞こえる。海岸の白波が目に入った。救われたのだ。生きて帰れたのだ。
 今思うに、ただの2、30メートル沖まで出ただけだと思うが、自分の周りが太平洋の静かな大きな波に囲まれ世界が遮られた事でパニックになったのだろう。
 精神的にヘトヘトになって海岸に這い上がり、何もなかったようなそぶりでサーフボードを返しに行った。
 それから波恐怖症で海岸が嫌いになった。美しい海岸が沢山あるブラジルに50年間いても、3、4回しか海水浴に行っていない。息子達がかわいそうだった。
 そのせいだろうか。長男は水泳(潜水)の上手い女性と結婚し、オーストラリア・シドニーへ移住した。

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