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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=32

 この住み込み先のアクリマソン区から日伯文化協会へは、歩いて十五分ぐらいで行け、そこでポルトガル語科に入学するのが目的であり、ブラジル語をア、ベ、セから学びはじめることにしたのだ。
 サンパウロ市内に、セー教会という百五十年をかけて建造した大きな教会がある。その前の広場がプラサ・ダ・セーで、ここに各地方への方角を示す起点がおかれている。私の働くことになったアクリマソン区は、そこから四~五キロぐらいであったろうか、東洋街にも近く、働いている間に一度も行ったことはないが、大きな公園もあり、この一九六七年頃は池に熱帯魚グッピーが泳いでいた。昔は邸宅ばかりだったとのことであるが、このころ住宅地としては一応中級といえるランクになっていたようだ。
 公園から通りを三本上がった所に、日本で団地と呼ぶアパルトメント群があった。近年の日本では、もうアパートと言わずマンションと呼ぶようだが、こちらではどんな高級建築であってもアパルトメントである。
 住み込みで働きはじめたその団地は、真中のプールとテニスコートを囲み、宝石の名前のつけられた七つの建物があった。もちろん一番高級なのはダイヤモンド、エメラルド、サファイア、奥に行くほどルビーやトッパーズと名が変わるらしかった。働くことになったのは、アパルトメント正面入り口のすぐ左手にあるダイヤモンドに住むK商事の駐在員社長宅であった。
 サンパウロの街に、痩せたジャポンノーボ(新来日本人)の女の子が一人増え、小さな部屋とベッドを与えられ働くことになったのだ。
 ここで私は、どんなことにおいても人間的なものに触れることはなかった。コロニア人(移民)にはない僭越さをマザマザと見せられたものである。
 ふるさとの町から出て、さまざまな思いをして働いた大阪での体験とも違う、日本人の一面を見ることになった。それは私がお手伝いだからであり、私を世話した早稲田大学の後輩などにはそうではなかった。コロニアでも成功している者に対してや、役職に就いている人達に対しては違ったが、その態度と腹のなかの蔑視の違いは、近くに居る者でなければ判らないと言える醜さを感じさせられた。

 戦時中、日本人が外地で非道なことを現地の人にしたというが、上から人を見下ろすばかりの僭越さはなぜだったのだろうか。コロニア人やブラジルに対するその僭越さは、ブラジルに来て間もない私でさえ反感を持つほどで、住み込んでいる私の場合おもに言葉でそんな扱いを受けた。
 家の中での接触は、おもに夫人と高校生と中学生の娘たちであったが、主である社長とは夫人にかけてくる電話の取り次ぎのみで、夫人に教えるマージャンのメンバーとして座らされ横に居ても生で話かけられることは一度もなかった。
 「この国のお陰で社長をしているんじゃないか、よくもまあ、夫婦ともこう威張れる、この国を、人を馬鹿にして、誰が作った野菜を食べている? そんなに偉いなら米も野菜も、日本から取り寄せて生活したら? 日本へ帰り、偉い生活をなさったら宜しいのでは」とムカムカしたものである。これほどの立派さは本社において如何ほどの地位に夫人共にあり生活をしていたのだろうか。
 これは商社のみならず、数年後知り合った海外事業団JICAの奥様方も例外ではない人がいた。

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