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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第89回

ニッケイ新聞 2013年6月6日

「おばあちゃんは日本人なんだから、日本にいればいい。でも、俺たちは韓国へ帰ろう。ここは俺たちの国ではない。韓国人から石を投げられてもそれは仕方ない。それはオカエシだからがまんするしかない」
 中学生の幸一が言った。
 日本人の差別意識の根深さに頬を張られた思いだった。朴美子が日本人との子供を産みたくないというのは、幸一のような存在を世に送り出したくないということなのだろう。

 朴美子は早稲田大学の合格発表を見て、「受かったわ」とだけ呟いた。それほど嬉しそうでもなかった。
 美子の目的は韓国文化研究会という在日のサークルに入部することが目的で、大学そのものに魅力を感じて入学したわけではなかった。美子の友人は「広場」編集部に出入りする連中くらいで、それ以外にはまったくといっていいほどなかった。
 入学手続きを早々と済ませ、美子は部室に頻繁に通っていた。
 一方、児玉は美子と別れて以来、ブラジルの永住査証を取得するために、大使館に足を運んだり、やりかけの韓国取材を終わらせるためにソウルに行ったりしていた。動き回っていると、美子のことを思い出さずに済んだし、一日も早くサンパウロに向かいたいと気持ちばかりが先行した。
 サンパウロに向かう五日前だった。朴美子からの電話を母親が受けた。
「電話だよ。まだ朴さんとつき合っているのかい?」
 受話器を手で塞ぎながら母親が聞いた。在日と付き合い、結婚を考えていると伝えた瞬間から、母親は差別意識を露わにした。
「朝鮮半島の女と結婚するなんて……」
 母親の従姉が在日と結婚した。従姉は家族や親戚から相手にされず、時折訪ねてきては愚痴をこぼして戻っていった。その姿を見ているせいなのだろう。在日と係累関係ができると、親戚から爪弾きにされると、児玉と美子の結婚を極端に反対していた。
 受話器を取り、話しかけたが返事がない。何かトラブルが起きて落ち込んでいるのだろう。そんな時はすすり泣きながら電話をよくかけてきた。
「用がないなら切ります」と電話を切ろうとした。
「待って」美子の声がした。「ご相談したいことがあります」
「何なの」いかにも煩わしそうに児玉は答えた。
「明日の夕方、ご都合は」
「午後五時に高田馬場のルノアールで」
 高田馬場駅近くの木造モルタルアパートの二階に「広場」編集部があった。編集部が打ち合わせでよく使う喫茶店で待ち合わせようと思った。
「編集部の方に知られたくないので」と美子が言った。
「どこがいいんだ」
「私の家に五時に来ていただけますか」
 翌日、児玉は美子の自宅を訪ねた。泥濘に足を取られるような思いと、それとは裏腹に再び以前のような関係に戻れるのではないかという期待感もあった。S駅に降り、美子の家に近づくに連れて深みにはまるような不安に襲われた。
 自宅の門まできて、帰ろうと思ったが、やはり美子のことが気になった。児玉は呼び鈴を押した。
 ドアが開いた。
「やはり来てくれたんだ。入って」
 児玉は家の中に入った。一階のキッチンには小さな丸いテーブルが置かれ、椅子三脚が並ぶ。そこで話をしようと、キッチンに入ろうとした。
「上の部屋に用意してあるから」
 美子が二階へ誘った。寝室のドアを開けた瞬間、タバコの煙が廊下に流れ出てきた。児玉が呼び鈴を押すまでこの部屋で吸っていたのだろう。外はまだ明るいというのに、部屋はカーテンが引かれ、外からの光は遮られていた。間接照明のライト二つが室内を照らしていた。
 児玉は部屋に入り、窓を開けようとした。
「止めて」児玉の背中を刺すようなヒステリックな声がした。


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