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越境する日本文化 舞踏(2)=命がけで突っ立った死体=創始者土方さん 西洋古典舞踊の否定へ

3月15日(土)

 演劇史上もっとも有名なセリフがある。それは演劇という芸術にかける役者の覚悟のようにも響く。
 生きるべきか、死ぬべき か
 ブラジルを代表する演劇人アンツネス・フィリョは八〇年、フランス・ナンシーの舞台芸術祭で初めて、舞踏家大野一雄さんの踊りを目にし、それまでの演劇観を根底から覆された。いまや「生きつつ、死ぬべき」である、と。 
 ここに思い出される。
 舞踏とは命がけで突っ立った死体である
 創始、土方巽さん(一九二八~一九八六)はそう言い残して、世を去った。
 少々乱暴な言い方をすれば、土方さんが立ち上げたものを大野さんが独自の詩的な表現力で紡ぎ続けているのが舞踏の本流だろう。
 とまれ、九十六の齢で、舞台に上る大野さんにも、土方さんにも「命がけ」という形容詞がよく似合う。
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 五〇年代、土方さんと同じバレエ団に所属していた小原明子さんに会った。移住して四十年以上、サンパウロ州奥地の日系共同農場「弓場」で、踊りを教えながら暮らす。
 土方さんのいた風景を語ってくれた。
戦後の焼け野原。その荒野に満ちていた解放感のようなもの。みんな貧しかったが、夢があった。
 「彼は秋田から上京してきた人。当時、男性舞踊手なんて仕事ないでしょ。食うや食わずやの日々。夏は布団を質に入れて、ときに血液を売ってね。ずいぶんとムチャをやってました」
 大野さんのもとに弟子入りし学んだマルタ・ソアレスさん(ダンサー、サンパウロ在住)は、「あの時代状況を背負った身体表現のムーブメントだけを舞踏と呼ぶのでは」と話す。
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 舞踏の誕生は五九年のことになる。伊勢湾台風が五千人の命をさらい、皇太子が正田美智子さんと結婚された、この年。振り返れば、キューバ革命が勃発し、ゴダールは前衛的映画「勝手にしやがれ」を撮った。ブラジルではボサノヴァが産声を上げ、ヴィラ・ロボスが命終した。世界の端境期だった。
 そんな時代下に、土方さんは「禁色」を発表する。血も滴る舞台には、倒錯的なエロチシズムと暴力がみなぎった。
 小原さんの回顧に、「彼は不器用でモダンダンスのパートナーとしては苦労した」との話があった。
 「禁色」以後、土方さんは恐らく「不器用だった」ことも手伝って、西洋古典舞踊の否定に向かい、解体され衰弱に向かう肉体の動きに美しさを見出す。命がけで突っ立った死体―俗に「死せる身体」という舞踏の美学だ。
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 八六年に初めてブラジル公演を行った大野さんは九二年、九七年にも招待されている。その度に、マスコミから尋ねられ、大野さんを困らせるのが、「日本の古典芸能からの影響は?」との質問。 
 大野さんは「・・・文楽ですかね」と舞踏の役者の肉体を、「人形」になぞえることにしている。 
 サンパウロ・カトリック大学のクリスチネ・グレイネル教授(身体芸術学)はさらに歌舞伎を挙げた。
 土方さんはその晩年、「東北歌舞伎」と呼ばれたシリーズに取り組んだ。そこでは重心を低く取り、ガニまたで踊った。故郷東北の風土に厳しく規制された肉体と仕草に新境地を見出した。 
 舞踏とははぐれた自分と出くわすこと
 土方さんはそう唱えると、「もともと歌舞伎の持っていた、アンモラルで猥雑なパワーを舞踏に取り戻そうとした」。 
 動きが似て見えるところもあることから、よく舞踏を『能』の現代版と捕らえがち。でも、それは間違いとか。「能は武士や貴族の芸能。農民、町民の文化だった歌舞伎とは違う。ヒジカタの頭に能などなかったはず」。
 世界的な舞踏ブームから、ブラジルでも流行を追いかけるグループ、ダンサーが幾つも見られる。「多くはその模倣に終わっている。日本の伝統芸、身体観、歴史を学んでいない」と、教授は意外にも冷めた見方を示す。
 舞踏とはもっと実存的なもの。そう考える教授が大学の授業で、試みていることがある。「動法」だ。
    (小林大祐記者)

■越境する日本文化 舞踏(1)=身体芸術日本生れ=振り付け家の楠野さん導入

■越境する日本文化 舞踏(2)=命がけで突っ立った死体=創始者土方さん 西洋古典舞踊の否定へ

■越境する日本文化 舞踏(3)=脚光浴びる「日本の身体観」=癒されるブラジル人たち

■越境する日本文化=舞踏(4)=受入れの素地はバロック趣味?=古典芸能の定番に食い込む

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