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越境する日本文化 舞踏(3)=脚光浴びる「日本の身体観」=癒されるブラジル人たち

3月18日(火)

 日本古来の芸事や武術に見られる身体の「型」をその原理から追及する「動法」の指導者、田中敏行さん。サンパウロ・カトリック大学で二年前から「足と体」、「身体の記憶」と題した実践授業を受け持っている。
 「目をつぶって、ちょっと手を出して見て下さい」
 記者の手のひらを取ると、人差し指で直線をなぞり始めた。
 ゆっくりと指は手のひらを行ったり、来たり…。「中心だと思ったら合図して」。が、なかなか「ここ」と言い出せない。ほかならぬ自分の体の一部なのに。
 思えば、日常生活で、意識して体を感じてみることなど、ほとんどない。そうこうするうちに、身体の統一感覚のようなものを見失ってしまったのだろうか。
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 「日本文化は『型』の習得抜きには継承することは出来ない」。田中さんはこう語る。「といっても、それぞれの型を覚える前に身に付けていなければならない、身体の感覚というものがある」そう。
 例えば、「立つ」。
 何気なく立つことと、能楽士が舞台で立つ、ということの間には「凄い違いがある」と強調する。
 しかし、明示のいわゆる〃脱亜入欧〃以降、「型」は総崩れに。日本文化の継承はおろか、「正座」や「腰を落とす」ことも満足に行かなくなった。日本人としての身体性は喪失の一途を辿る。
 それは情報・ハイテク一辺倒の社会を迎え、さらに深刻化している。もっとも日本だけでなく、世界中で身体の「抑圧」とか「危機」などと叫ばれている。
 田中さんによれば、日本人はまた、心を磨くときに体を使ってきた。座禅はいい例だ。心(しん)は身(しん)、精神と肉体を不可分なもの。ひいては人間と自然もそんな風に考えた。
 西欧では古くから一般にこうしたものを分割して認識する風潮がある。その限界が現代に入って一気に噴出している。
 「今まで知らなかった感覚を発見し、力にして行くことが『動法』の狙い。心身と自然環境との調和がその前提にある」
 この哲学に共感を込めた視線を送ったのがクリスチネ・グレイネル教授(身体芸術学部)だ。
 「『動法』は身体に対するさまざまな知覚と経験を得る助けとなる。体と空間・時間との関係や位相についての理解も深まる」
 特に若い芸術家たちが学べば、その成果も広がるはず、と田中さんを大学に招いた理由を語る。
 大野一雄さんの元で舞踏を学んでいた日系三世のシサさんと、田中さんは日本で結婚。九四年に移住した。サンパウロ近郊エンブーの高台に自宅を設けた。「風の家」と呼ぶ。畳間で行われるレッスンに通うのはプロのダンサーが大半を占める。
 「西洋のダンスはきれいだけれども、内面の部分をおろそかにしている」と思う。「だから、美しく踊ってはいても、心は相当しんどいようだ。心身の回復が必要なんです」
 日本の身体観に学び、これを受け入れ、癒されるブラジル人たちがいる。
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 こうした傾向を受けてサンパウロ日本文化センターでは二十五日から、シンポジウム「日本人の身体」を開催する(二十八日まで)。四年前のワークショップ「日本人の身体を読む」を掘り下げた企画、とセンターでは位置付けている。
 クローンやヒトゲノム…「体」というのは一体どこまで「自分」のものなのか、不確かな時代に突入した。
 そこでにわかに「日本の身体性」が脚光を浴びだした格好だ。「例えば、大野さんの舞踏に見る肉体には、土から出て来るものを吸い上げるような確固たる強さがある」とはセンターの高橋譲さん。精神の内部や自然の大地に根を持つような身体感覚が日本人には備わっている。
 シンポの最中には大野さんの写真集の出版が予定される。三回を数えるブラジル公演の模様を追ったもので、すでに関係者の間で前評判が高い。 
 日本人の身体感覚を生かした技法や表現が注目を集める。対極にあるものへの憧れからか、その視線はいよいよ熱い。それが「舞踏」を軸にしたものであることもまた確かなようだ。
 
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